守田です。(20121021 22:30)
哲学を、思想を、倫理学を、論じなければいけないと思っています。
最近、忙しさにかまけて、学習量がかなり落ちてしまいました。忙しさの中には、そのときどきで自分がおいているプライオリティが反映しています。それを冷静に見つめてみると、今の僕は、目の前にある課題を追いかけるようになっていて、物事をその深いところから捉え、変革の可能性を探っていく姿勢が衰えてしまっています。
何というか、だからこそ、忙しさに苦しめられています。受動的なのです。これを打開するためには何が必要なのか。今ここで、今後の長い射程を視座にいれた思想的な捉え返しを進めることであると思えます。それが哲学、思想、倫理学を論じなければいけないと思う内在的な根拠です。
課題は日々押し寄せてきます。そのさまざまな課題に、多くの人が立ち向かってくれています。とても共感します。
僕もその一つ一つに駆けつけたいのだけれど、おそらく、今の僕の役割はそれをすることではなくて、現場で奮闘する人にタッチできない領域を切り開き、そこから言葉を贈ることだと思っています。そのためには文学も必要ですが、同時に哲学が求められていると僕は思います。だからこの領域にチャレンジします。
原子力産業が依拠する功利主義
さしあたってとりかかるべきは功利主義に対する検討です。なぜか。『内部被曝』共著者の矢ヶ﨑克馬さんは、DAYS JAPAN最新号(2012年11月号)で、端的に次のように書いています。
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功利主義は「公益が得られるならば、犠牲者が出てもしょうがない」という考え方で、日本国憲法、国連憲章、世界人権宣言、等で謳われている「基本的人権と人間の尊厳」の民主的社会の原理を真っ向から否定する考え方です」(同誌p26)
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非常に端的な批判だと思います。
功利主義のスローガンは、最大多数の最大幸福です。社会的な幸福の総量が最も多い状態を目指すことがもっとも善であるという考え方です。現代の国家の多くはこの考え方を採用しています。
功利主義の弱点は、「配分の中身を問えない」ことにあると言われてきました。すべての人の幸福量を足し合わせて最大になるのが善だとすると、一部の人は不幸でも、より多数の人の幸福が非常に大きければ、この不幸が社会的に是認されてしまうことになるからです。それが幸福の「配分の中身を問えない」ということです。
この考えが適用されているのが、原子力産業です。原子力発電は被曝労働を前提とした体系です。燃料の加工から運転、点検などさまざまな点で、被曝を生み出します。また繰り返し事故を起こして、周辺環境への放射能漏れを起こしてきたし、常に大事故のリスクも抱えています。実際に、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと破局的な大事故も起こしました。
それだけではありません。原発は平常運転時でも微量の放射能を出し続けています。これらは周辺の環境を汚染し続けています。ドイツで行われた長期調査(kikk調査)で、原発の近くでは小児白血病の発生率が、有意に高いことが明らかになっています。
これらは公然たる事実です。ところがまさに「公益が得られるならば、犠牲者が出てもしょうがない」という功利主義の考え方が現代社会を支配しているがゆえに、こうした犠牲が省みられずに、運転が続けられているのです。
もちろんその際、犠牲が非常に小さくカウントされていたり、ある部分はまったく隠蔽されているという事実もあります。これに対しては思想的な批判ではなく、事実関係の暴露が必要です。そのことを僕はこれまで心がけてきたし、これからも行っていきたいと思います。
しかし同時に今、功利主義思想をきちんと批判していくとが問われていると強く思うのです。なぜなら被害や危険性の隠蔽だけでなく、少数者が犠牲になっても、社会的幸福の総量が大きくなればいいというこの冷酷な考え方に、私たちの社会が毒されているからです。
最大多数の最大幸福は何によって測られているのか
では社会的幸福の総量とはいかに測られているのでしょうか。本当はそんなもの、測ることはできないということが非常に重要なポイントなのですが、今はそれを脇においておいて、現代では事実上それが、GDP(国内総生産)によって表されていることを指摘したいと思います。
それで原発を止めてしまうと、やれ国際競争が弱くなると困るとか、産業が衰退するとかいうことが言われます。しかし例えば数十年前から比べると、GDPは圧倒的に多くなっているのに、現代では多くの若者が仕事にも就けずにワーキングプアの生活を送っています。仕事に就くことだけを考えるならは、高度経済成長期の方が、ずっと働きやすい社会でした。
もちろん、その時にはその時の矛盾があったので、今と比較して過去の方が社会が幸せに満ちていたと言いたいのではありませんが、ここで指摘したいのは、戦後67年間において、GDPの総額が確実に、ものすごい勢いで上がってきたのに、それで私たちの幸せがどんどん拡大してきたわけではないという点です。確実に増えたと言えるのは使用できる消費財の量と質のみです。
なぜなのか。まさに功利主義の罠にはまっているからだと僕は思います。幸福が金銭の多寡に置き換えられた上で、その総量は年々拡大してきたのに、その配分は著しく平等性を欠いています。
また同じく幸福の中身が具体的に検討されないで、常に数値に単純化して表されていること、また社会を担う人間も平均化され、数値化された単純な「幸福」の拡大を「配分」されているという錯覚を与えられてきたからです。
しかしGDPはいろいろな意味で矛盾に満ちています。例えばたくさんの人が病気になり、通院するようになり、医療費がたくさん支払われると、それでGDPは上がったことになります。名医が出てきて、薬もあまり使わないで治してしまうと、儲からないので、GDPは増えません。そのように「幸福」の中身の具体性が検証されないのです。
単純化と平均化の誤り
つまり功利主義は、幸福が、金銭的多寡に単純化されて測られ、それが国民・住民の中にどのように分配されたのか、その具体性は何ら問題にされずに、あたかも国民・住民が平均的にそれを受け取っているかのような錯覚を生み出してきたのです。そのために現実には多くの不幸が眼前として目の前にあるのに、無視されてしまうし、自分の幸せに直接につながっているわけではないGDPだとか、国際競争力だとかの強弱に、多くの人々が振り回されてもきたのです。
それが絶対に被曝することが確実な労働がなければなりたたない原発が、私たちの社会で容認されてきてしまった根拠なのですが、実はこうした単純化と平均化の考え方は、原子力産業が依って立つ放射線学の考え方にも深く浸透しています。
この点は、岩波ブックレット『内部被曝』の中で、矢ヶ﨑さんによって明快に指摘されています。第3章「誰が放射線のリスクを決めてきたのか」の冒頭の、「放射線によるリスクを単純化・平均化」というところです。少し引用します。
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内部被曝が見えなくされていることと、放射線の生命に対する被害が非常に軽く扱われていることに問題があります。そしてそれは、ICRPの二つの致命的な欠陥なのです。
その一つは放射線被曝の具体性が切り捨てられ、単純化と平均化が行われていることです。この点は、内部被曝の危険性を隠してしまうことにつながっています。(p32)
問題を放射線の持つエネルギーだけに抽象化しているので、それがどれだけの回数の電離(分子切断)をおこなうかということすら、具体的に考察しないのです。
どのような作用を人体に及ぼし、どのように推移していくかが、電離(分子切断)の具体的な分布のようすを捨て去り、平均化・単純化されているのです。これが私の指摘する「具体性の捨象と単純化・平均化」という誤りです。
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このように、原子力産業は、少数者の犠牲を無視した功利主義に依拠して、原発の運転を行っているのですが、同時にその放射線被曝の評価においても、被害の具体性を捨象する功利主義の単純化・平均化と同じ発想を採用しているのです。もともと共通の価値観に支配された考え方なので、必然的に出てくる類似性であるとも言えます。
したがって功利主義を、その成り立ちに遡り、その発想の根幹にまで立ち入って、批判的に検討することは、内部被曝の科学を、私たちが取り戻していく上でも極めて重要な位置性を持っていると言えます。
この点については、ECRR(ヨーロッパ放射線リスク委員会)も注目しており、その2010年勧告でも一つの章をこの点の検討に費やしています。第4章「放射線リスクと倫理原理」の章です。
ここでも、このECRR2010年勧告で指摘された内容を考察するところから、さらに功利主義の検討を深めていきたいと思います。
続く
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