守田です。(20121003 16:00)

9月27日に台湾から帰国し、そのまま関空から兵庫県篠山市に向かいました。夜に篠山市で講演、その日は温泉のある「ささやま荘」に泊めさせていただき、翌朝、丹波市に移って午前10時から講演。その後、舞鶴市に移動。夕方から講演を行い、震災遺物(がれき)問題でのミーティングに23時半まで同席しました。翌日29日は宮津のイベントに参加。意義多い3日間を過ごしてきました。その詳細についてはすでに前回の記事でお知らせしています。

さて、ここでもう一度、台湾に戻って、今回の旅の一番の目的だった呉秀妹アマアのことを書きたいと思います。彼女は現在96歳。客家(ハッカ)の方で、台湾語と客家語を話されます。日本語は少しだけ話せるのですが、それがなんとも愛らしい。

幼いとき、貧しかったアマアは苦労を重ねた末に、騙されて性奴隷にされてしまい、中国戦線へと送られてしました。その後、台湾に帰国、やはり生活でとても苦労されましたが、その中で養女を育て、たくましく生きてこられました。

彼女が名乗りを上げたのは、婦援会の呼びかけに応えてです。といっても、十分な教育を受けられなかったアマアは、文字が読めない。婦援会の呼びかけ文もアマアの目に入ることはありませんでした。ところがあるとき、アマアが辛い過去を伝えたごくごく親しい方が、婦援会の呼びかけ文を読み、アマアに「これはあなたのことでは」と伝えてくれました。それで彼女は声を上げたのでした。

初めてアマアが婦援会を訪れたとき、彼女はうつむきがちで、多くを語らず、ひっこみがちであったそうです。ところが婦援会のさまざまな企画に関わっているうちにどんどん変わっていった。元気になり、よく笑うようになり、かつなんにでも積極的にチャレンジするようになりました。

婦援会の活動が素晴らしいのは、アマアたちの心身の傷を癒すためのさまざまなセラピーワークショップを繰り返してきたことです。例えばアマアたちに等身大の図を与えて、体の中の自分の好きなところに好きに色づけしてもらう。これは、心の中に入り込んだ、自らの体が汚されているという感覚から、アマアたちを解放するための試みでした。

あるいは結婚ができなかったり、いわんや結婚式をあげることができなかったアマアたちのために、ウェディングドレスを用意し、みんなで撮影会を行いました。その後、それぞれのアマアたちに、ウェディングドレスを着た写真が額にいれて送られましたが、どのアマアのお宅にいっても、それが一番大事に飾られていました。

アマアたちに生まれ変わったら何になりたいのかを聞いて、その夢をかなえてあげようとするドリーム・カム・トゥルー・プロジェクトもありました。このときシュウメイアマアはキャビン・アテンダント(CA)になりたいといった。アマアの言葉では飛行機の「小姐(シャオジエ・お姐さん)」です。

それで婦援会は、チャイナ航空に交渉。すぐにOKが出て、空港にある実際のCAの訓練に使う施設を貸していただきました。しかも専属の訓練士やヘアードレッサーが参加してくれて、簡単なレッスンがなされ、みんなが座っている模擬飛行室(客室の一部を再現したもの)に、チャイナ航空の制服で着飾ったアマアが颯爽と登場。

「離陸」にあたって、救命用具の使い方を説明したり、「飛行」に移ると、席をまわってお茶を配ったりします。やがて飛行機が「着陸」。アマアは乗客が出て行くのをお見送り。最後に、CAが持っているキャリーバックをひっぱってでてきて、みんなに手を振りました。婦援会とチャイナ航空の粋なはからいがとても嬉しかった。

そんな過程を経て、アマアの心はどんどん解放されていき、同時にこの問題をただそうとする強い意志も大きく育っていきました。婦援会の中にあって、アマアと私たちの橋渡しを一番してくれている素敵な女性、ウーホエリンさんも、実はアマアが名乗りを上げたころに婦援会に参加。アマアとともに歩んできたとのことで、アマアが変わってきた過程の素晴らしさをつぶさに話してくれました。

そんなアマアが日本にきて、私たちと会ってくれたのが2006年秋。その後、みんなで台湾を訪れ、あまたちとの交流を深めて、2008年秋にシュウメイアマアだけをお招きし、幾つかの証言をしてもらうとともに盛大なパーティーを開きました。このときもアマアにピンクのドレスを着てもらい、参加者が一人ずつ模擬の花をそのドレスに挨拶をしてはりつけていく催しをしました。

アマアは証言の中で、「私は名乗りをあげてよかった。こうして日本にこれて素敵な人たちに会えた。守田さんたちに会うことができた。今が一番幸せだ」と泣きながら語ってくれました。アマアをお招きして本当に良かったと思う一瞬でした。実行委のみんながもら泣きしてしまいました。

アマアの横顔示すエピソードにも事欠きません。はじめてアマアが来日したある夜、僕が宿舎から帰ろうとするときに、アマアがでてきて、僕の連れ合いの浅井桐子さんに「あなたの名前はなんていうんだい」と尋ねたことがありました。詳しくは(550)に書いてありますが、アマアは「今日はこの人が実の娘のように付き添ってくれたよ。お風呂で体もあらってくれたよ。私は子どもが生めなくて淋しかった。だから今日はとても嬉しかった。それなのに、私は名前も呼べなかったよ」と語ったのでした。

それに対して、僕が「僕はもうお母さんがないんだよ。だからアマアを本当のお母さんのように思っているよ」といったら、彼女は「でも私は貧しいんだよ。子どものお前たちに何も買って上げられないよ」といいます。「それじゃあ台湾にいくからアマアの手料理を食べさせて」というと、「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」という。

そういいながらポロポロと涙を流すアマアをみんなで囲み、みんなでもらい泣きしながら、温かい時間を過ごしました。今でも忘れられない思い出で、このことを前にも書きましたが、実はこの話は続きがあるのです。「お前たちに何も買って上げられない」と言ったアマア、それだけでは終わらなかったのです。翌日になるとアマアは、「おまえたちに金を買ってあげたい。金の売っているところに連れて行っておくれ」と言い出した。

なぜ金なのかというと、台湾では子どもが生まれたときに、お金持ちになれるようにと、金の指輪を買ってあげて、足の指にはめてあげたりすることがあるからなのだそうです。金を子どもに買い与えるのが親の甲斐性。だからアマアは金を買うという。しかも一度言い出したことは絶対に曲げない。

この日は間が悪かったのか良かったのか、金閣寺に観光にいくことになっていました。台湾のおばあさんたちも韓国のおばあさんたちも、金閣は見るととても喜んでくれるのですが、アマアもとても喜んでくれた。そうして境内で、なんども一緒に写真をとりながら一緒に歩いていき、やがて出口付近にあるお土産やさんに入ることになりました。

とたんにアマアの目が輝きだす。こちらは、「ま、まずい」と思い、陰にまわってごちゃごちゃ相談。「これはもう何かを買ってもらうしかない。できるだけ安いものにしよう」と決めて、アマアに金箔の入った小瓶を渡しました。それを手で振ったアマア、「金はこんなに軽くない!」と一蹴。高そうな商品に目を向けて手を伸ばします。それでやむをえず2000円ぐらいのペンダントを手に取り、浅井さんがこれが欲しいとアマアに。

「これ本物?これ金?」とアマアは繰り返す。金メッキなのでまあ嘘ではなかろうと「本物よ」と浅井さん。ようやくアマアとレジにいきましたが、値段を聞いてアマアの顔がくもりました。きっと「金はこんなに安くない!」と思ったのでしょう。

そこからの帰りの車。アマアたちとホエリンさんと僕が乗っていたのですが、アマアがまた金を売っているところに連れて行けと言い出す。僕が「京都は小さな町で金は売ってないんだよ」というと、「私は騙されない。日本は金持ちだ。それに金閣寺にはあんなに金があった。絶対にどこかで売っているはずだ」と譲らない。

ほとんど降参状態でした。ホエリンさんは、「私たちのアマアは頭がいいのよ。さあ、守田さん、どうする?」といたずらっぽく笑うばかり。とりあえず、この日はもう時間が遅かったので、それを理由に宿舎に帰りました。その後も、なんやかんやとスケジュールがあり、アマアも金を買いに連れて行けとは言い出せず、結局、この話はそのまま流れていきました。

ところが、アマアはそれで終わりにはしなかった。その後に私たちが再び台湾に訪問し、アマアの家に集まってパーティーをしたとき、アマアが浅井さんにプレゼントを持ってきた。なんと金のネックレスだったのです。それを首にはめてしまった。えーっ。どうしよう?断れない。とりあえずもらうしかない。ホエリンさんもここはもらってと笑いながら目で合図してくる。それでありがとうと伝えて日本まで持ち帰りました。

しかし日本に帰ってまじまじとみると、どう見てもかなり高価なものにしか見えない。これはなんとか返さないと思っていると、ホエリンさんから連絡が来ました。実はこのネックレスは、金を大切にしているアマアのために、お孫さんが買ったもの。どうも数十万円するらしい。アマアはこれを浅井さんにあげて、同じものを買い戻すつもりだったのだそうです。

ところがネックレスですから、同じものを探すのは難しくて、アマアが困っているとのこと。やはりとにかくこれはお返ししようと決めました。それで台湾に向かう東京の柴洋子さんにお願いし、「とてもありがたいのだけれど、気持ちだけもらっておくから」とお返ししました。アマアは納得してくれた様子で、金の話はようやくこれで一段落となりました。

このようにアマアはとてもプライドが高く、意志が強い。自分の思ったこと、とくに人への思いをどこまでも貫こうとする。恩を受けたら必ず何倍にもして返す。たどたどしい日本語で、かわいらしい言葉をたくさん発するのだけれど、アマアはただかわいいおばあちゃんなのではないのです。その心の中には、人生の荒波を不屈に生き抜いてきた精神力が脈々と波打っているのです。

そんなアマアをみて僕はたくさんのことを教えてもらうことができました。核心問題は人間は不幸や困難を越えられるということです。しかもどんなにひどい経験をしても、人を愛する心を維持できる。逞しく育ててくることができる。それはほとんど驚異の力です。でもアマアの中にそれがあるならば、同じ人間である私たちも、それを自分のものとできないはずはない。僕はそんな風に思ってきました。

というのは、この性奴隷問題に関わり始めて、僕は一度だけ、関わりを続けていくのはあまりにもしんどいと思ったことがあります。それは各地の戦線に送られた女性たちの被害実態をいろいろと調べていたときのことでした。前にも書いたように、被害女性たちの経験を比較することはできないことですが、それでも僕には中国での戦闘の最前線に送られた女性たちが一番過酷な体験をしたように思えました。なぜなら日本軍が最も獰猛で、殺戮だけでなく、略奪やレイプなどを繰り返していたかの地では、「慰安所」でもレイプが行われるだけでなく、残虐な殺戮が繰り返されていたからです。

その一例を書くので覚悟して読んで欲しいと思いますが、あるとき兵士のあまりに野蛮な振る舞いに抵抗した女性がいました。彼女は繰り返されたレイプの中で妊娠していました。彼女のやむにやまれぬ抵抗に激怒した兵士は、「慰安所」の女性たちすべてを広場に連れ出し、どうなるかの見せしめだとばかりに、彼女たちの前で抵抗した女性を日本刀で惨殺したのです。

そればかりか、腹を裂いて胎児の入っている子宮を取り出し、それをスライスした。それを居並ぶ女性たちの頭の上からかけていったのです。・・・「慰安所」というと、レイプをする場としか思い及びませんが、そればかりではない。鬱積した憤懣をはらすため、しばしばこうして女性をなぶり殺しにすることまでが行われたのでした。

僕はこうした事実を、京都精華大学の図書館の中で見つけた資料によって知りました。そこにはこれと違わないような残虐な例が他にもたくさん書いてあったのですが、それを読んで僕は、図書館の本棚と本棚の間のカーペットの上に座り込んでしまいました。閉じた本を抱えたまま、あまりのショックに立てなくなってしまいました。

そのとき浮かんできた感情は、怒りを通り越して、人間全般への絶望でした。人間とはこんなことをする生き物なのかと考えると、人の世を明るくしようとする努力のすべてが無駄なように感じられました。ああ、こんなことを見続けるのは辛すぎる。こんな惨劇はもう見たくない。この問題にこれ以上、触れたくないと、正直なところ僕はそう思いました。今でもあのときの図書館の風景が頭にこびりつています。

しかしその後にそんな気持ちを乗り越えて活動する中で、出会うことのできたたくさんのおばあさんたちの横顔は、そんな僕の思いを癒し、勇気を与えてくれるものばかりでした。何よりも深く心を揺るがされたのは、彼女たちが、兵士への恨みからではなく、人々、とくに若い人々への愛から立ち上がっていることでした。「もう二度と、若い人があんな思いをしてはいけない」。どの国のおばあさんも共通に語る言葉がこれでした。

正確に言えば、そのように強い意志と愛情を維持できたおばあさんたちだけが名乗りをあげることができたのです。「慰安婦」にされた女性は推定で20万人以上。その中の1%にも満たないほんの一握りの女性たちしか声をあげることができなかった。そして声をあげた女性たちはそのほとんどが、人生の荒波を乗り越え、くめど尽きせぬような生きることへの意志と人々への愛情を育て上げてきた方たちだったのです。

シュウメイアマアもその代表の一人です。だからこそ私たちは彼女に魅せられた。とくに私たち夫妻にとって、日本の娘とその夫・・・と呼ばれることはとても光栄でした。アマアは私たちにとって特別な存在になりました。そんなアマアを見舞うのが今回の旅だったのです。

さて呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)の家にようやく辿り着き、僕はいそいそと階段を駆け上りました。すでにたくさんの人が訪れていて玄関があいていました。僕はアマアの笑顔が早くみたくて玄関を走りぬけるように中に入りました。ちょうどそのとき、偶然にもアマアが車椅子で押されて自分の部屋からでてきて、顔が会いました。

しかしその瞬間に僕の甘い期待はもののみごとに裏切られてしまいました。アマアはまったく笑わなかったのです。その顔は、げっそりとやつれ、ほとんど半分ぐらいになってしまっていた。しかも表情には深い憂いが漂うばかりでした。僕のことを認識してくれたのかも良く分からなかった。

ショックでした。あまりに深いショックでした。ああ、アマアはこんなにも老いてしまった。あのかわいらしい笑顔がどこかに去ってしまった。ああ、淋しい。ああ、悲しい。・・・そんな思いが僕の胸をいっぺんに覆いつくしました。

続く