守田です。(20180106 11:00)

前回の記事の中で、どうも日本人は謙虚すぎるのではないか。自分を評価しなさすぎるのではないか。
常に高みを目指す職人的気質でもあって良い点もあるが、それが生きづらさを作りだしてもいるのではないか。そんなことも社会運動の課題にしたいと思うがどうだろうか・・・と書きました。

今回はこの点をそのまま社会運動に当てはめてみたいと思います。
するとここでも同じことが言えて、社会運動の中でも、自分たちに対するあまりに過小な評価がなされているとは言えると僕は思うのですがいかがでしょうか。

例えばいま、稼働している原発はたったの4基です。しかし「多くの方がもう4基も動かされてしまった」と言う。それで反原発運動が下火になっているという方も多いです。
「いやいやそうではない!」と僕は思うのです。

そもそも福島原発事故まで稼働可能な原発は54基あったのに、昨秋までに福島第一原発を含めて12基の廃炉が決まり、稼働可能な原発は42基でした。
一方、昨年10月まで伊方原発も動いてましたから稼働は5基でした。つまりその段階で私たちは日本に住まう市民は37基もの原発を止めていたのです。(伊方原発はその後定期点検で停止)
廃炉と言う点ではこれに最も危険な高速増殖炉もんじゅの廃炉も加わりました。

しかもその後、関西電力は大飯原発1、2号機の稼働をも断念し、廃炉化を決めました。私たちの民衆運動の広がりへの対応の中で作りだされてきた新規制基準を満たすことができないからです。
この新規制も「重大事故」の発生を前提としたもので、安全の確保にはほど遠く、評価などできませんが、しかしそれがネックで動かせなくなった原発もたくさんあります。

ともあれこうして稼働可能な原発そのものが現在、40基にまで減りましたが、さらに昨年末に伊方原発の運転を認めない仮処分決定が広島高裁で発せられて、現状での稼働原発は4基になっています。
つまり私たちはなお36基の原発の稼働を止めているし、裁判を重ねて他の原発を停める可能性だって広げてきているのです。

もちろん関西電力と九州電力が、今春にさらに大飯3、4号機、玄海3、4号機の稼働を目指していますから、けして楽観できるわけではありません。
いやすでに動いている4基もいつ事故を起こすやも知れませんから、原発から命を守る備えをせざるをえません。
しかしそれでも福島原発事故以前とは雲泥の差なのです。ここにはさまざまな形でのこの国に住まう人々全体の覚醒の影響が見てとれます。

これに対して多くの方、とくに社会運動を担っている方が、日本の民衆のことを、しばしば否定的に語るのをよく耳にします。
「意識が低い」「なんでもすぐに忘れてしまう」「政治に関する教育を受けていない」などなど。

それらの一つ一つに確かに根拠もあると僕も思います。でももっと肯定的な面も見てもいいのではないでしょうか。
さらに「無関心こそが一番悪い」などという言葉もよく聞きます。しかしそのたびに僕は「果たしてそうだろうか」と感じるのです。

なぜならこの国に住まう人々の多くは、先にも述べたような職人的気質を強く持ち、それぞれの現場で、責任感を持って、かなりの奮闘をして社会を支えてくれてもいるからです。
だから例えば電車もバスも、かなりの正確さで駅や停留所に入ってくるし、郵便物や宅急便もリジットに届きます。商店で買う商品もひどい裏切りにあうことはほとんどないし、値段に対しても割と安心して受け取ることができます。

あるいはどこかで大けがをすれば、いち早く救急車が駆けつけてくれます。しかも無料でです。病院に行けば、基本的には貧富の差別なく医療を受けることもできます。
つまり「政治」に無関心であろうと、多くの人々が、社会のどこかで何かを支えて奮闘してくれていて、その一つ一つが私たちの暮らし、命と平和を支えています。

これらは戦後70年におよんで民主主義を守り、育んできた民衆の努力の結果でもあります。
私たちがいま当たり前のように受け取っている平和をはじめ、数々の権利が以前の世代の奮闘の中で私たちに送られてきているのです。僕はそれらに深い感謝を感じます。
多くの人々がそうやって、いろいろなところで日夜汗水流しているので、僕には「民衆は意識が低い」などなどと言う気にはなれないのです。福島原発事故以前からそうでした。

では悪いのは誰かと言えば、こうした人々の信頼=信任を裏切り、無責任なことを続けてきた政府や企業、電力会社の中枢の人々でしたし、それにおもねってきた科学者やマスコミ幹部たちでした。今もそうだと思います。
とくに原発推進派と呼ばれる人々は、数々の科学的な警告を無視し、あるいは握り潰し、人々の安全性を踏みにじって儲けることを続けてきました。とても悪いです。危険なのを承知なのに人々を欺き続けてきたのだからです。

しかしいま、多くの人々がやっとのことで、この国の中枢の人々の多くが無責任であり、かつ私利私欲をむさぼるものが多いことに覚醒しつつあります。
素晴らしいことです。明らかにこの国の歴史を画しています。

とくにこの間、多くの人々は、新自由主義のもとの過酷な競争原理に追い込まれ、その中で「自己責任」を背負わされ、自分以外のことに目を向ける余裕をますます奪われている状態にあります。
「無関心」というより社会に関心を向ける余裕、あるいは自分が社会の重要な一員であると実感できる場を奪われ、疎外され、それでもなお自分の場の責任を果たそうともがいている人がとても多いです。

東日本大震災と福島原発事故後、そこに大きな変化がおきつつある。実にたくさんの人々が、それまで行ったことのなかったデモに出てみたり、脱原発企画に参加したり、自ら行動するようになりました。
「被曝」という現実的な脅威にさらされているファクターもあってのことであり、喜べない面がたくさんありますが、しかしそれを差し引いてもなお素晴らしい。

その力があるからこそ、原子力政策の流れも大きく変わりだしています。
あれだけ圧倒的な議席を占有し、さまざまに悪いことを強行している安倍政権ですらいまだに4基の原発しか動かせていません。理由は世論の過半数が原発反対だからです。

またこの力が裁判所をも大きく動かしています。福島原発事故まで原発の稼働を認めなかった判決は1件だけでしたが、福島原発事故後はもう4件も稼働を認めない判決や決定が出されています。
2016年3月には初めて稼働中の原発(高浜原発)を裁判で止めることが実現されました。昨年はやはり初めて高裁での停止命令判決が出ました。このため電力会社は大きな「訴訟リスク」を抱えて困惑しています。

誰がこうした流れを作り出したのかと言えば、もともと原発の危険性を訴え続けてきた人々と、避難者をはじめ、東日本で、自ら被災しながら原発の危険性と非人道性を訴えてきた人々だと思います。
しかしこれに対する全国津々浦々での受け止め方も素晴らしかった。原発反対の声は瞬く間に広がり、平和を守る行動にも飛び火していきました。本当に多くの人々があの日を契機に変わりました。

もちろんいまこの社会に足りないことはたくさんあります。たくさんの被曝が放置されたままです。恐ろしい健康被害も進行中で、けして楽観はできません。
しかしこの状態をさらになんとかひっくり返すためにも、僕はいまある自分たちの力をもっと高く評価し、そこにさらなるポテンシャルが隠されていることも知るべきだと思うのです。

そもそもこれまでの世界史の中で、常に為政者にとって一番重要なことは、抑圧されている人々に無力感を植え付けることでした。民衆に自分たちの力に目覚めさせないことでした。
いまも同じです。民衆に自分たちのことを、無力で、愚かで、力もないと思わせることにこそ常に支配の要はあり続けているのです。

だからこの世を愛と平和と革命で満たすために一番大事なことは、私たちが私たちの力に目覚めることです。
ラディカルデモクラシーはそこから始まると僕は思うのです。

続く