守田です。(20150301 22:30)

ICRP批判に戻ります。
矢ヶ崎さんはICRP批判を始めるときに次のスライドを提示されます。

ICRP(国際放射線防護委員会)の特徴=人の健康ではなく企業の利益を守る
①人命防護ではなく核推進と核企業防護 正当化、防護の最適化、線量限度の適用
②科学の放棄:具体性の捨象:平均化・単純化 内部被曝の政治的無視 科学的無視

ICRPは人命を守ってはいない。核推進と核企業防護を目的としているのだという指摘です。そのために科学の放棄が行われている。
今回、問題としたいのはここでスライドの中に上げらている「正当化、防護の最適化、線量限度の適用」についてです。これはICRPが自身の目的としてうたっているものです。
この分析のために、ICRP自身のテキストを使おうと思います。”ICRP Publication 103″、邦題は『国際放射線防護委員会の2007年勧告』です。(2007年勧告と略します)書籍としては、社団法人日本アイソトープ協会から発行されています。

「正当化、防護の最適化、線量限度の適用」はICRPによって「放射線防護の3つの基本原則」と呼ばれるものであり、ICRPによる自己規定の中で最も重要なものです。
2007年勧告の冒頭に掲げられた「総括」の中で次のようにまとめられています。

「正当化原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである」(同書pⅹⅶ)
「防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである」
「線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきではない」(同pⅹⅷ)

「総括」に続く「用語解説」の中で「正当化(Justification)」は以下のように説明されています。

「(1)放射線に関係する計画された活動が、総合的に見て有益であるかどうか、すなわち、その活動の導入又は継続が、活動の結果生じる害(放射線による損害を含む)よりも大きな便益を個人と社会にもたらすかどうか;
あるいは(2)緊急時被ばく状況又は現存被ばく状況において提案されている救済措置が総合的に見て有益でありそうかどうか、すなわち、その救済措置の導入や継続によって個人及び社会にもたらさせる便益が、その費用及びその措置に起因する何らかの害又は損傷を上回るかどうかを決定するプロセス。」(同書pG7)

「防護(及び安全)の最適化(Optimisation of protection (and safety)」は以下のように説明されています。

「いかなるレベルの防護と安全が、被ばく及び潜在被ばくの確率と大きさを、経済的・社会的要因を考慮の上、合理的に達成可能な限り低くできるかを決めるプロセス。」(同書pG13)

「線量限度(Doze limit)」は以下のように説明されています。

「計画被ばく状況から個人が受ける、超えてはならない実効線量又は等価線量の値。」(同書pG9)

ICRPの文章と取り組んでいくためには、一つ一つの言葉の定義をきちんと押さえて進んでいく必要があります。さらっと語られた文言の中にたびたび重大な事柄が潜んでいるからです。
今、上げた3つの原則はとくに重要なのですが、まず大きく捉えておくべきことは、ICRPが放射線防護原則を「すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである」としていることです。
端的に純科学的な放射線と人体との関係の考察によって防護体系が作りだされているのではなく、その上に「経済的及び社会的要因」が取り入れられ、「合理的に達成できる限り低く保つべき」という考えが打ち出されています。

この点は同書の本文の「1.緒言」の中でもう少し具体的に語られています。というのはもともと放射線環境下で働く労働者の保護を目的として出発した同委員会は、当初は人間にとって被ばくをしてもここまでは安全だという「しきい値」があると考える立場にありました。
ところが「米国の放射線科医の間で悪性疾患が過剰に出現し、また日本の原爆被爆者に過剰な白血病の最初の疫学的証拠が初めて現れたことから、しきい値に関する支持は1954年までに減退した(ICRP,1955)」(同書p1)
つまり戦後に放射線被ばくには安全な「しきい値」がないという確認がなされたわけですが、ではどのように安全を確保するのかという点でICRPは次第に大きく変質していったのです。この点を同書より引用します。

「委員会の1954年勧告は「すべてのタイプの電離放射線に対する被ばくを可能な限り低いレベルに低減するため、あらゆる努力をすべきである」と助言した(ICRP,1955)
このことは、引き続いて被ばくを「実際的に可能な限り低く維持する」(ICRP,1959)、「容易に達成可能な限り低く維持する」(ICRP,1966)、またその後「経済的及び社会的な考慮を行った上で合理的に達成可能な限り低く維持する」(ICRP,1973)という勧告として定式化された。」(同書p2)

ICRPの記述を読んでいると放射線防護の原則が、被ばく防護には「しきい値」がないことが確認されて以降、ただだんだんに見解が深められて現在にいたっているかのように映りますが、まったくそうではありません。
このわずか数行で表された文言の中で原則の重大な変更がなされているのです。それは「被ばくを可能な限り低いレベルに低減するため、あらゆる努力をすべきである」とされていたものが、「経済的及び社会的な考慮を行った上で合理的に達成可能な限り低く維持する」と変更されていることです。
可能な限り被ばくを軽減すべきだという考えが明確に否定され、「経済的社会的」要因を導入した上で、「合理的に達成可能な限り」という文言がに変わったのです。

本書の中でこの点がもっと直接的に語られている個所があります。「5.8 防護の最適化」の項目です。ここでは以下のように記述されています。

「防護の最適化は線量の最小化ではない。最適化された防護は、被ばくによる損害と個人の防護のために利用できる諸資材とで注意深くバランスをとった評価の結果である。したがって、最善の選択肢は、必ずしも最低の線量をもたらすとは限らない。」(同書p53)

ここまで見てきて明らかなことは二つの点です。
一つ目は次の点です。ICRPは放射線被ばく防護にしきい値が設けられないことを確認して以降、いったんは可能な限り被ばくを低く抑えるべきだと科学的に正しい主張を掲げていたのでした。放射線はどんなに小さな量でも人体に悪影響を及ぼすからです。
ところが中川保雄さんも明らかにしたように、当初はアメリカしか保有していなかった核兵器が数か国に保有されるようになったことや、原子力発電の普及で核産業が発達する中でICRPの態度が変質してしまい、核戦略や核産業にとって「合理的」と言える範囲で被ばくを押さえれば良いと言う立場に転換してしまったということです。

二つ目はその際に「経済的及び社会的な考慮」を持ち込むことで、放射線防護学は純粋科学と切り離されてしまったということです。
それまでのICRPは曲がりなりにも原爆被爆者のデータなどに基づいた線量管理を主張していました。そのデータ自身に大きな問題があったわけですが、この観点に立つ限り、データの誤りが見つかれば、線量評価を見直さざるを得ないことになります。
事実、中性子爆弾開発過程で、広島の放射線スペクトルがあやまって見積もられていたことが分かったときに、ICRPは線量体系の見直しを行い、公衆の被ばく限度量をそれまでの年間5ミリシーベルトから1ミリシーベルトへと下方修正しています。

一見、基準が強化されたように見えるわけですが、一方でICRPはそのように純粋科学とリンクしていると、新たな事実が見つかる度に基準を強化せざるを得ず、核産業が苦しくなって存続できなくなることを問題視し、純粋科学との切り離しを図ったのでした。
かくして持ち込まれたものこそ「経済的及び社会的な考慮」なのでした。これが持ち込まれてしまえば、もはや放射線が人体にどのような影響があるのかだけで被ばく防護を語らなくて良いことになる。
なぜなら「経済的及び社会的な考慮」なるものは、純粋科学としては導出のしようのないものであり、政治的、社会的判断として、社会的合意のもとでなされるものであって、純粋な科学の数値と比較して操作しやすいものだからです。

ICRPの放射線防護体系が、科学から遊離したものであることがここにはっきりと示されています。
「経済的及び社会的考慮」を加えたものが放射線の人体への影響を解き明かした科学だなどと言えるはずがないのです。
にもかかわらず、ICRPは自らの体系をあたかも科学であるかのように装い、ICRPの擁護者の多くもそれを無前提に信頼してしまっています。ここがICRP体系のもっとも大きな矛盾なのです。

続く