守田です。(20141105 00:30)

『大学生活の迷い方』を読んでの続きをお送りします。

先に僕は本書には恩師、宇沢先生が説かれた教育の理想がちりばめていると書きましたが、ここで宇沢先生の教育論をご紹介したいと思います。岩波新書の名著、『日本の教育を考える』の中で宇沢先生は次のように述べられています。
「教育とは何か。一口でいってしまえば、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長を助けるのが教育だと言ってよいでしょう。」(同書p10)

そうです。教育の本分は、よく誤解されるように何かを教え込むことにあるのではないのです。
もともと人間には自らを成長させる本源的な力が備わっている。そして成長を熱烈に欲するのも人間の自然的欲求です。だから子どもは何でも真似たがる。真似て今の自分の以上の何かに近づくことに夢中になるのです。
教育はこの自然的欲求としての成長の手助けをすることにあるのであって、そのためには、成長を阻害しないための慎重な関わりも求められます。子どもが自ら考え、判断し、発展方向を見出していけるように配慮し、環境を整え、道筋をつけてあげる。そこに教育の本分がある。
もちろん、そのためにさまざまな知識を伝授することもあります。しかし知識の修得も、子どもが自ら主体的につかみとっていく方向性を確保できた時にもっとも効率よくなされていく。あくまで学ぶ主体は子ども自身だからです。

僕自身、わずか一時ですが、京都精華大学のアドミッション・オフィスに参加し、同大学に面接試験などで合格した受験生たちと大学入学まで対話していく「入学前教育」というプログラムを担うことで学生教育に携わったことがあります。
その時のメインテキストの一つが他ならぬ『日本の教育を考える』であり、実際に高校三年生を主体とした若者たちと対話しながら、僕自身もこの書の観点を自ら体験的に修得することができたのでしたが、その理想の生きたサンプルが僕には松蔭寮の日々であるように思えるのです。
もちろんこう書くと蒔田さんは必ず「褒めすぎだ」と言うに決まっているのですが、僕は教育の場とは本来、ドタバタしたものだと思うのです。若き当事者たちはいつも右往左往しており、周りで見つめる大人たちもハラハラドキドキであり続けるからです。
振り返れば誰しも分かるように、どうしたって若き日々には特有の辛さがあります。かつて高校生のときに恩師が「君たちには若さゆえの生理的憂悶があるのだ」と小林秀雄だかの一節を引きながら教えてくれたことがありましたが、それに寄り添う日々が予定調和的に進むはずがない。

だから生きた教育の場はいつも「想定外」の連続であり、奇想天外な事件に見舞われてばかりであり、奇人変人のオンパレードなのです。実は「普通の人」などどこにもおらず、誰もが「標準偏差」などから離れた奇人変人だからでもあります。自由な場が提供されれば当然にもその「本性」が出てくるのです。
松蔭寮に横溢してきた自由は、学生たちの「本性」を表に出すことへの自由でもありました。同時に自由には結果に責任をとることが伴うこともこの寮ははっきりと自覚してきた。だから寮で起こるさまざまなことを自ら決していく原則全員参加の寮会が重要視され、時には過酷なほどに時間をかけた討論が重ねられてきました。
本書にはそんな寮生たちの姿がたくさん反映しています。そして若者たちの成長を見守りながら、「非常事態」が発生するたびに登場する蒔田さんの姿も。
大人のみなさんにはぜひこれらの過程の中から、若者たちの自立心と成長への欲求を十二分に尊重し、なおかつ私たちがしっかりとした守り手として周りにいさえすれば、若者はこんなにも生き生きと育ち、輝いていける存在なのだということをこそシェアしていただきたいいと思います。

もう一点。今回、これまでも知ってきたはずの松蔭寮という女子寮の物語に接して、つくづく感じたのは、今やこの寮にこそ同志社の建学の精神が宿っているのではないかということです。
僕はかつて宇沢先生に同志社大学社会的共通資本研究センターに拾っていただいた縁で、この大学の設立史を研究したことがあります。その中で僕が深く尊敬するにいたったのが新島襄とともに同志社を設立した山本覚馬でした。
NHKの大河ドラマ『八重の桜』で描かれた新島八重のお兄さんです。大河ドラマにはその偉業の半分も描かれていませんでしたが、実際の山本覚馬は間違いなく日本で一番最初のフェミニストでした。
例えばドラマには描かれませんでしたが、彼は当時の日本で常識化していた売買春から女性たちを解放するために奔走し、明治5年に「芸娼妓解放令」を打ち立てさせるに至ります。そのために祇園の暴漢に襲われて滅多打ちされ、歩行ができなくなってしまうのですが、そうまでして覚馬は女性解放を推し進めようとしたのです。

しかも法の成立にも関わらず肝心の売買春は止みませんでした。法の解釈替えによって抜け道が作りだされてしまったためでしたが、それでも覚馬はひるみませんでした。法がダメなら人の心から磨き直すことが核心だと考え、キリスト教に近づいていき、ゴードンという宣教師から新島襄を紹介されたのです。
この時、キリスト教精神に基づいた教育機関を打ち立てたいという襄の熱き思いに覚馬は感動し、「新島君。君と僕は同志だ。僕たち同志の社を作りましょう」と語ったと伝えられています。同志社の名のおこりです。今出川の土地を寄進したのも覚馬でした。その年長の兄のもとに女傑として育ったのが八重であり、その彼女が襄のパートナーとなって、同志社建学を支えました。
覚馬の話にはつきないものがありますが、ともあれ同志社の建学の理念に強く込められていたものこそ女性解放の思想であり、自立した女性たちを育て上げることにあったことは間違いのないことです。そもそも覚馬は、同志社創設の前に日本で二番目の女子高である「新英学級及女紅場」も設立しています。現在の京都府立鴨沂高等学校ですが、同校は松蔭寮のすぐ北側に位置しています。
悲しいことに同志社大学はこうした覚馬の偉業をほとんど学生に伝えていないのですが、少なくとも覚馬は僕にとって心から尊敬してやまない人士であり、それもあって京都の東山がナラ枯れに襲われた時には、執念をもって若王子山にある覚馬の眠る同志社墓地に通い、周辺の木々の防除活動に奔走しました。蒔田さんはそんなときもいつも寮生を連れて駆けつけてくれて一緒に防除を担ってくれました。

今回、はたと思ったのは、この本の完成を一番喜んでいるのは、新島襄であり山本覚馬であり、八重であるかもしれないということです。
僭越ながら同志社人の方たちにはぜひこのことを己に問うてみていただきたいです。同志社大学は今、建学の理念に沿っているでしょうか。金融ゲームの跋扈する社会への知的批判拠点たりえず、体制に迎合的になり、建学の志に背を向けつつあるのではないでしょうか。
ましてやますます女性と男性の格差を広げつつある今の社会にまったく抗することができずにいるのではないでしょうか。キャンパスに「常に誠実、かつ真実であれ。大胆に自信を持って発言、行動せよ」という新島襄の言葉が掲げられてあるにも関わらずにです。
もっとも蒔田さん自身は本書の中で、新島襄の「諸君、人一人ハ大切ナリ。一人ハ大切ナリ」という言葉を紹介し次のように述べています。
「繰り返す言葉に強い思いが溢れるこの人に心惹かれ、ちょっと恋して40年目。」「その人が夢見た学校で140年後、ごめんなさいJoe、今日も寮生たちを「大切ナリ」にできませんでしたと、鴨川のほとりを自転車で走りながらつぶやく、毎日の帰り道です。」(同書p228、229)

そうですね。もうこれ以上、褒めあげられても困りますよね。そうです。僕らの現実の日々は、いつも思い描いているうちのほんの少ししか実現できずに暮れてしまう。でもきっとそれは襄も覚馬も八重もそうだったのではとも思えます。
だからこそ大切なのはバトンを受け取って走ること、先人たちと共同で担っている壮大な事業として「今」を捉え、そうして出来る限りで良いから力一杯走って走って、次につなぐことなのだと思います。
そしてそれこそが実は最も楽しい生き方なのだというあらためての確信をこの本からいただけたように思えます。
すべての著者のみなさん、寮に関わられてきたみなさんに心からお礼をいいたいです。
最後に蒔田さんの結びの言葉をそのまま引用させてもらって、この拙い書評を閉じたいと思います。
「私たちより若いすべての人たち、これから生まれてくる人たちに、「たった一人のあなたは大切ナリ」、あなたの命がなによりも大切と言い切れる世の中を手渡したい。それがこれからの私の夢。
明日もまた一日を大切に、転んでこけて、一緒に生きていきましょう。」(同書p230)

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『大学生活の迷い方―― 女子寮ドタバタ日記 ――』
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-500787