守田です。(20140923 23:00)

福島原発事故をめぐる吉田調書の読み解きの2回目です。なお読み解きの前提として東京新聞に掲載された「吉田調書要旨」を使わせていただきます。アドレスを紹介しておきます。
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/yoshida-report/

このうち今回、取り上げたいのは3月11日の報告です。この日の14時46分、東日本大震災が発生しました。
これまでの原発事故調などの調査の中で、この大地震の影響で福島原発の配管のどこかが破断し、冷却水漏れが始まっていたことが強く推定されていますが吉田氏はこれには触れておらず、15時37分に津波の到来の中で全交流電源喪失が起こり、危機が始まったとしています。
以下、当該部分を引用します。
「異常が起こったのは(十五時)三十七分の全交流電源損失が最初でして、DG(注 非常用ディーゼル発電機)動かないよ、何だという話の後で、津波が来たみたいだという話で、この時点で『えっ』という感覚ですね」
「はっきり言って、まいってしまっていたんですね。シビアアクシデント(過酷事故)になる可能性が高い。大変なことになったというのがまず第一感」
「絶望していました。どうやって冷却するのか検討しろという話はしていますけれども、考えてもこれというのがないんです。
DD(ディーゼル駆動の消火ポンプ)を動かせば(炉に水が)行くというのは分かっていて、水がなさそうだという話が入り、非常に難しいと思っていました」
(引用は東京新聞から。http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/yoshida-report/01.html
冒頭から非常に重要なポイントが出てきます。「全交流電源喪失」という事態を前にして、現場の総指揮官が思ったことは「はっきり言って、まいってしまっていたんですね」「絶望していました」ということだったことです。
また「どうやって冷却するのか検討しろという話はしていますけれども、考えてもこれというのがないんです」とも語っています。
私たちが何よりしっかりと把握しておかなければならないのは、これがシビアアクシデント(過酷事故)の実相だということです。

2012年9月に解散された原子力安全・保安院はシビアアクシデントを以下のように規定してしまいました。
「設計上想定していない事態が起こり、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却又は反応度の制御ができない状態になり、炉心溶融 又は原子炉格納容器破損に至る事象」。
(引用はウキペディア「シビアアクシデント」より
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%88

吉田氏が「はっきり言って、まいってしまっていた」「絶望していた」と答えているのはこの時始まった事故が「設計上想定していない事態が起こり、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却又は反応度の制御ができない状態」だったからです。
「考えてもこれというのがない」・・・当然です。想定されていない事態だからです。自動車で言えばブレーキが壊れて止まらなくなってしまった状態です。
ここがなぜ重要なのかと言うと、福島原発で現場指揮官が絶望してしまうような事態が起こってしまったこと、シビアアクシデントが発生したということは、日本のすべての原発の設計そのものが問い直されなければならないことをこそ物語っているからです。
このことが現実に起こったシビアアクシデントに即して、また吉田氏のこの臨場感ある述懐に即して、突き出していかなければならないことなのです。

ところがその後「シビアアクシデント対策」なる言葉が登場してきます。原子力安全・保安院を引き継いで設立された原子力規制委員会が2013年2月6日に「新安全基準(シビアアクシデント対策)の骨子案」を発表しています。
https://www.nsr.go.jp/public_comment/bosyu130206/kossi_sa.pdf

この「対策」は安全設計思想に明らかに矛盾したものです。なぜなら「設計上あってはならないこと」=「想定外の事態」への「対策」だと言っているからです。当たり前のことですが人間が対策を立てられるのは想定できることに対してだけです。
想定外の事態への対応とは、成功するかどうか分からないままに手当たり次第に思いつくことをやるようなものです。実際にそうした事態に遭遇したらなんでもやってみるしかないし、事実、吉田氏はそういう対応が問われたのでした。
しかしここから捉え返すべきは、設計そのものが間違っていたということであり、原発を再度稼働させるというのなら、少なくとも設計からやり直し「想定外」のシビアアクシデントが起こらないようにすべきなのです。

当時も今も、まさにここにこそ報道の焦点を当てなければならないのに、ほとんどのマスコミは「シビアアクシデント対策はしっかりとなされているのか」というような話に流れていってしまいました。東電にミスリードさせられてしまったのです。
僕が知る限りでは当初よりこのことを最も的確に捉え、批判的解説を繰り返していたのは元東芝の格納容器設計者、後藤政志さんでした。僕も多くを学びました。しかしこうした見識を捉えて政府批判にきちんと適用したマスコミも政党も残念ながらありませんでした。
再稼働の動きもこの重大問題をぼかしたまま出てきていることを私たちは今からでもきちんと捉え直し、シビアアクシデント対策を施せば良いのではなく、最低でも設計そのものを見直すべきこと、原発容認の立場からしてもそれが最低守るべき安全思想であることをおさえるべきです。

では原子力推進派はこの点をどうとらえたのか。実はまさにこの点にこそ再稼働のネックであることをつかみ「新安全基準(シビアアクシデント対策)の骨子案」に対する意見募集に対して次のように指摘しています。
「「シビアアクシデント」の日本語訳は「過酷事故」とすべき。」
「「シビアアクシデント」ではなく「重大事故」とし、「設計基準事象を大幅に超える」での大幅を削除すること。恣意的な解釈になり得る。」
これに対して原子力規制委員会は「考え方」として以下のように答えています。

「「重大事故」とし、改正原子炉等規制法の定義を用います。」
(引用は「新安全基準(シビアアクシデント対策)骨子案へのご意見について」より
https://www.nsr.go.jp/committee/yuushikisya/shin_anzenkijyun/data/0019_11.pdf
そうしてこれ以降、徐々に「シビアアクシデント」の言葉が消え、「重大事故、いわゆるシビアアクシデント」などと使われるようになっていってしまいます。
一例として中部電力のホームページでの説明を貼り付けておきます。
「シビアアクシデントとは、炉心が大きく損傷するような重大事故のことです。
シビアアクシデントに至る恐れのある事態が万一発生した場合、それが拡大するのを防止するため、もしくは拡大した場合にもその影響を緩和するために実施する対策をシビアアクシデント対策といいます。
シビアアクシデント対策については、これまで事業者が自主的に実施してきましたが、福島事故を契機に、「重大事故基準」として、国の新規制基準に導入されました。」
(引用は中部電力ホームページ「お客様の声 重大事故対策」
http://hamaoka.chuden.jp/voice/others_detail07.html
ここで行われていることは何だったのか。想定外の事故=シビアアクシデントを二度と起こさないように設計から見直していくという誠実な方向性ではなく、全く逆に「想定外」のシビアアクシデントが起こり、かつこれからも起こる可能性があることを隠してしまうことだったのです。
そうしてシビアアクシデントが「重大事故」に読み替えられ、「対策」を立てるといいだした。要するに事故は想定できるのだ、今のままの設計で対策は可能なのだというところに話が捻じ曲げられていったのです。本当に悔しいかな、どこのマスコミもこれを批判してこれなかった。

それではそもそも「重大事故」とはいかに規定されていたものなのか。
日本の原子力関係各界で勤務してきた退職者、要するに原子力村の人々が組織している「エネルギー問題に発言する会」の会員座談会の席上で、日本原子力研究開発機構安全研究センター副センター長の更田豊志氏が以下のように述べたことが紹介されています。
「現在の安全規制では事象を「運転時の異常な過度変化」「事故」「重大事故」「仮想事故」「シビアアクシデント」に分類している。
このうち、「運転時の異常な過度変化」と「事故」は設計基準事象(DBE)として安全設計、安全評価の対象であり、「重大事故」「仮想事故」は立地評価の対象であるが、「シビアアクシデント」は安全審査の対象外である。」
なんのことはない。もともと「重大事故」は「シビアアクシデント」よりも下位に位置づけられていたものなのです。ちなみに「重大事故」とは技術的にありうることが想定できる深刻な事故、「仮想事故」とは技術的にありうるとは考えらえないが対応を想定している深刻な事故のこと。
そしてこの上に「シビアアクシデント」があり「安全審査の対象外」だったのです。なぜ対象外だったのか。安全対策の立てようがない事故だからであり、あってはならないものとされていたからです。ちなみにこの座談会の中でも前掲したものと同じく以下のように「シビアアクシデント」の規定が語られています。
「設計基準事象を大幅に超える事象であって、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却または反応度の制御ができない状態であり、その結果、炉心の重大な損傷に至る事象を指す。」
(引用は同会会員座談会報告より
http://www.engy-sqr.com/lecture/document/zadankai110721r2a.pdf
この「シビアアクシデント」を「重大事故」に読み替えてしまうのは、極めて悪質な、設計思想上の概念のすり替えです。モラルハザードに陥っているこの国で頻発している食品の産地偽装や品質表示の偽造よりももっと格段にひどい。
「シビアアクシデント」という事態の持っている深刻性はこの言葉とともにこうして消されつつあるのです。しかし今、吉田氏の赤裸々な述懐が明らかになることによって、あのとき起こったのが「シビアアクシデント」であったことが再びハイライトされた。だからこそ私たちはここに立ち戻って思考しなければならない。
さらに胸に突きつけるべきは、このシビアアクシデントがまだ収束していないことです。今の福島第一原発の現状そのものが想定外なのです。だからあの手、この手で対応せざるを得ないし、それもなかなかうまく行ってないのです。
この事故はいつまた深刻さを増し私たちに重大な危機を突きつけてくるかも分からないことがここに懐胎されています。だから本当にすべてをこの事態への対応に集中しなくてはいけないのです。

この危機感、緊張感をこそ、私たちはこの調書から読み取らなければなりません。
吉田調書の主体的読み解きを続けます!

続く