守田です(20210813 23:30)

8月1日から7日まで広島市を訪れてきました。濃密に、いろいろなものを見て、聞いて、触れて、出会って来ました。被爆二世の森川聖詩さんと同行の旅でした。
そのどれもが深い体験で、その中で僕にはたくさんのことが見えてきました。どう報告したらいいだろう。戸惑いながらも、まずは見てきたとおりのことを再現してみようと思います。

● レイクエムコンサートに参加

1日にまず訪れたのは旧日銀広島支店でした。広島市中区袋町にあります。ここで「ヒロシマレクイエム・コンサート’21」が行われました。
シンガーソングライターの新屋まりさん(歌、ギター)が中心。吉野妙さん(ピアノ)、倉田香織さん(キーボード)、ポットプーリー(合唱)、寺井弦さん(指揮)という構成でした。

第一部は新屋まりさんがこれまで歌われてきたさまざまな曲が、ピアノとキーボードをバックに次々披露されました。
僕にとっては久しぶりに聞く生コンサート。身体が喜んでいることを感じました。

そして第二部、この日のメインの合唱が行われました。森川さんのお父さまで、「あの日」を奇跡的に生き延びられた森川定實(さだみ)さんの遺作の詩に、新屋まりさんが曲をつけて合唱にしたてたのでした。
圧巻でした。完全に心が持って行かれました。森川さんのお父さまの、そしてお父さまがいつも代弁する多くの被爆者の方たちの声が聞こえてきたように思えました。まずは森川定實さんの詩、「声」をお読み下さい。

● 声 もりかわさだみ

一 人のなした業
あのとき ヒロシマは
膨大な火炎と煙の大瀑布が
たぎり昇って天に連なり
命あるものも無いものも
焦熱のなかにのた打ちまわった
老いも若きも 男も女も焼かれ
赤茶色の哀れな化けものとなって裂け潰れた
天守閣の森も長寿園の桜の木も
相生橋も 浅野泉邸も
トンボもバッタも 川えびも
そして川底にシジミ貝輝く太田川も
神宿らぬ人間の仕組んだ天変地異

二 声ならぬ声
あの日 水に入り猛火を逃れて
川原の草地に倒れるように
泥となって身を横たえた
突風が雑草をなぎ顔を打つ
聞こえくる広島滅亡の地獄の響き
風の咆哮か
燃えつきた人びとの魂が
上空に沸き返る雲と煙の中を
さ迷い走る怨嗟の叫びが
そのどよめきに交わる幾十の童のうめき
焼けただれ 千切れた手をあげ
お父ちゃん! お母ちゃん!
だが・・・・・
いまわのうごめきはやがて絶えゆく
戦争に生れ飢餓に育ち
人の人たる生も得ず
大量殺りくの只中に潰えゆく
子たちの命の悲しみよ

三 疼き
故郷ヒロシマに墓参に帰ると
そして街角にたたずむと
またも聞こえくる あの日の死者の
舗道下から湧き上がる声 声
無念さに歯ぎしりする
地下の白骨のきしみ
この下にうちの子が うちの子が!
叫び続けた母たちの声
今もなお この心に刺さったまま
疼き続ける
あなたたちの叫びに耳を貸そうともせず
ひたすら逃げのびたことの心の疼き


詩は書家だったお母さま、瑞枝さん(雅号・紫峰)が揮ごう。滋賀県の多賀図書館で展示されたのち、川崎市平和館に森川聖詩さんによって寄贈された。写真は多賀図書館にて 2019年8月 守田撮影

● 森川定實さん、そして被爆者の苦しみを聞く

いかがでしょうか・・・。
森川定實さんは、当時NHKの職員として働いていて、夜勤明けであの瞬間を迎えられました。爆心地から約1キロの距離でした。
放送局の建物の中にいても多くの方が亡くなる大変な惨事の中で、お父さまはやがて建物を出て北に向かわれました。社屋が爆撃されたら、生き残ったものが北にある原放送所に移って、電波を出し続けることが決められていたためでした。

その道すがら、お父さまは縮景園という、池に多くの被爆者が群がった庭園を横切られ、川に入って北を目指し、そこから上がられて今は白潮公園と呼ばれる川原で、たくさんの子どもたちが声をあげながら絶命していくのを目撃されます。
のちにお父さまと合流された職員の方の中には「妻を見殺しにしてきてしまった」と、おいおい泣く方もおられたそうです。
あの惨事を命からがら生き延びた多くの被爆者が、あるいは建物の下敷きになり、あるいは熱線と放射線、爆風で大けがをし、「水を」「助けて」と叫ぶ方たちを助けることができなかった辛い経験を経ていました。

その被爆者の思いを代弁するように、森川定實さんはこう書かれました。
「またも聞こえてくる あの日の死者の 舗道下から湧き上がる声 声 無念さに歯ぎしりする」
「あなたたちの叫びに耳を貸そうともせず ひたすら逃げのびたことの心の疼き」

新屋まりさんが作られた曲は、この被爆者の思いに肉薄したものでした。とくにこの場面、「お父ちゃん」「お母ちゃん」という絶命していく子どもらの叫び。
そしてそれを繰り返し心の中で反芻しては「無念さに歯ぎしりする」、このフレーズが繰り返されました。僕には何十回も繰り返されたように聞こえました。


あの日、定實さんが横切られた縮景園。翌朝、池の周りは水を求めて亡くなった方のご遺体がぐるりと並んでいた 2020年12月 守田撮影

● 被爆者は二重三重の苦しみを背負わされた

被爆者には二重三重の苦しみがありました。熱線、爆風、放射線に身を曝された苦しみ。大けがをし、やがてバタバタと多くの方が悶絶の末に亡くなっていきました。
建物の下敷きになったまま、被爆後に起こった大火事で生きたまま焼かれた方も多数いました。
そしてその姿を目にしながら「助けられなかった」苦しみ。生涯にわたって、絶命していく人々の声を、繰り返し聞き続けてしまう苦しみ。

森川定實さんの「歯ぎしり」、そのフレーズがハイライトされた合唱を聴いていて、どっと涙が溢れました。
「森川さん。違います。それはあなたの罪ではない。耳を貸そうとしなかったのではない。あなたが悪いのでありません。違う。断じて違う。違うんだ。あなたが歯ぎしりせねばならないことではないんだ!」
繰り返し心の中で叫ばざるを得ませんでした。

同時に強い怒りも巻き起こりました。「被爆者の方たちになぜこんな思いをさせ続けたのだ。なぜケアしなかったのだ。なぜこの痛みを癒して差し上げなかったのだ。なぜだ・・・」。
大日本帝国政府はアメリカに勝てる可能性がゼロになってからも、戦争を終わらせようとせず、諸都市が空襲され、沖縄に地上戦をしかけられ、広島・長崎で原爆が使われるまで、市民を米軍に酷く殺されるままに任せていました。
戦後の日本政府は、そのことを全く反省しないままに、被爆者を長い間放置し続け、その後、わずかに医療保障を行ってきたものの、心の傷を一度も手当てせずに来ました。そんなの許せない。許してはならないです・・・。

なお、この日のコンサートの模様を、新屋まりさんがブログで書いておられるのでご紹介しておきます。
鎮魂のコンサートin被爆建物
https://blog.goo.ne.jp/niiya-mari/e/5de6a24e9c1d9990af6ce175525b012c

新屋さんのブログより

続く

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