守田です。(20121115 07:00)

連載の続きを紹介したいと思います。
(580)の最後に、1963年、ついに「部分的核実験禁止条約」が実現されたことを紹介しましたが、私たちはこの一連の過程から二つのことを押さえておく必要があります。一つに1940年代から50年代に続けられた核実験によって、私たちの多くが実は大きな被曝を強いられてきたことです。
しかし一方では、子どもと未来世代を守ろうとした当時の女性たちの本当に必死になった立ち上がりによって、私たちが大きく守られたことをみることができます。
あのときの核実験がなければ、私たちの周りで今、発生しているガンの多くは発症しなかった可能性があります。しかし他方で、あのまま核実験が進めば、私たちの今は、もっと陰惨で、暗いものであった可能性もあります。

こうしたことを物語るデータの一つに、アメリカにおける学力試験の推移があります。これについては、アメリカの統計学者ジョン・M・グールドらが執筆し、肥田舜太郎さんらが翻訳した著書『内部の敵』に詳しく書かれています。
第三章「低体重児出生とベビーブーム世代の免疫不全」から引用します。

「1945年生まれの子供が18歳になった1963年は、大学に進む既望に燃えてSAT試験(高校受験適正検査)を受け始めた最初の年であった。それはまた~殆ど20年間続いていたSATの通常の成績が、~突然、予期しなかった下降を始めた年でもあった」(同書P45)
「1963年から20年近く続いたSAT成績の低下は、1945年から1963年までの地上核実験に一致した低体重児出生の百分率の上昇の姿を、正確に、正反対に模写している。それらの年に起こった胎児のホルモン系と免疫系の組織に対する攻撃は、結果として750万のベビーブーム世代の多くに精神的、肉体的、精神医学的名問題を引き起こし、苦しめてきた」(P47)
「1994年に教育省が行った教育の進歩に関する評価では、1950年代から凡そ1964年までに生まれた子供の読書、数学、科学の成績が同じように低下し、その後、軽く上昇していることを示している」(P47)

これはネバタ砂漠という直近で繰り返し核実験を行われたアメリカの人々の記録ですが、いずれにせよこの世代を生きてきた私たち、あるいはこの世代を親に、祖父母に持つ私たちは、米ソ政府を初め、当時の核実験当事国に対して、刑事告発をすべきだし、当然のものとして命を傷つけられたことへの補償を求めるべきです。
それと同時に、私たちと、今の子どもたち、つまり当時の人々にとっての未来世代を守ってくれたあのときの女性たちを先頭とした輝かしい運動に、深い感謝をささげる必要があります。大気中核実験が続けば被害はもっと甚大になっただろうからです。

1959年生まれの私も、小さいときに母親に「雨にあたると頭が禿げるから当たっちゃだめ」と激しく諭された覚えがあります。母は積極的に社会運動を担う人ではありませんでしたが、周りの多くの女性の叫びを聞いて、私を守ろうとしてくれたのでしょう。
子どもの私は、なぜ雨に当たると頭が禿げるかが分からずとにかく怖いと思ったこと、それでも母の真剣なまなざしに、分からなくても聞かなくてはいけないなにかを感じたことを覚えています。その後、小学生高学年になって広島原爆を描いた漫画『はだしのゲン』を読み、ゲンの頭髪が抜けてしまうことをみて、「これかあ」とゾーっとしたことを覚えています。

しかし同時に今、私たちが見つめておかなければならないのは、このように日本国内だけで3000万人という空前の署名運動が実現され、さらに大気圏内核実験を中止に追い込みながら、私たちの世の中が、原発建設を容認してしまったこと。核兵器反対を原発反対につなげられず、核の世界にとどめをさせなかったことです。
そもそも原発の建設そのものが、核兵器反対運動の高揚に対し、「原子力の平和利用」を対置して、「核」を生き延びさせる位置性を多分に持っていたのでした。当時の人々はこれを打ち破ることができなかったのです。

原子力の平和利用宣言が出されたのは1953年。アイゼンハワー大統領のもとによってでした。アメリカは国内の汚染の高まりへの不安に対置する形で「平和利用」を持ち出しました。
ではなぜ原発建設が必要だったのでしょうか。原爆を作るためにはまずウランを濃縮させる必要があります。天然のウランは0.6%しか核分裂しません。正確には0.6%のウラン235が核分裂性であり、残りのウラン238は核分裂しないのです。
ところがこの核分裂しないウラン238に中性子があたると、それが取り込まれてウラン239になり、それが変化を重ねてプルトニウム239が生まれます。それが原爆の主要な材料とされたのです。

原子炉はもともとこのようにしてプルトニウムを取り出すために作られた装置でした。濃度を高めたウランがあってはじめて核分裂の連鎖反応が起きる。このとき放出される中性子が、ウラン235とともに装着されたウラン238にあたるとプルトニウムが生まれる。
そのためもともと原子炉はプルトニウム生産炉と呼ばれていました。そしてこの炉の運転の前提をなすのがウランの濃縮でした。

しかしウラン濃縮の工程が大変、複雑であるため、必要な量だけを的確に作ることができませんでした。濃縮ウランはどんどんできてしまうのです。だからといって濃縮工場をいったんとめてしまうと再稼動に非常に長い時間がかかる。冷戦下における兵器製造工場としてはそれではまずい。
そのため膨大に生み出されてくる濃縮ウランの使用先が求められたのです。そのとき着目されたのが、核分裂の際に膨大な熱が生まれ、冷却剤が必要でそれが熱を持つことでした。思考錯誤の末に冷却材は水に落ち着きましたが、水は熱せられて膨大な水蒸気を生む。ならばそれでタービンを回そうと生まれたのが原子力発電だったのです。

このように原発は、濃縮ウランの需要先を作るために必要とされた位置を持っていました。アメリカはそれを「原子力の平和利用」に結びつけ、推進を開始したのです。
この原発の推進において大きな位置を持った国が、ほかならぬ日本でした。なぜか。日本が唯一の被爆国だったからです。原子爆弾で被災した日本人が自ら原子力発電を進める。これほど悪魔の殺人兵器、原爆から転換し、「平和のための利用」という原発のイメージを上げるものはありませでした。

さらに最近、出てきた情報では、日本への原発の導入は、ビキニ環礁での被災に対し、女性たちを中心に始まった反核運動を押さえ込む奥の手そのものとして行われたという論も出てきています。それが先にも紹介した『戦後史の正体』(孫崎享著 創元社)の記述です。
当該箇所では読売新聞正力松太郎の懐刀であった柴田秀利の著作『マスコミ回想録』から次のような引用がなされています。孫引きで恐縮ですが紹介しておきます。

「第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆します。これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。このままほっておいたら営々として築きあげてきたアメリカとの友好的な関係に決定的な破局をまねく。
ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々がつづいた。そのときアメリカを代表して出てきたのが、ワトスンという肩書きを明かさない男だった。
数日後、私は結論を告げた。『日本には昔から毒には毒をもって制するということわざがある。原子力は双刃の剣だ。原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、それによって偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない』と熱弁をふるった。この一言に彼の瞳が輝いた。
『よろしい。柴田さんそれで行こう!』彼の手が私の肩をたたき、ギュッと抱きしめた。政府間ではなく、あくまでも民間協力の線で「原子力平和利用使節団」の名のもとに、日本に送るように彼にハッパをかけた。
昭和30年元旦の紙面を飾る社告を出して天下に公表した」(同書P176)

この文書は孫引きですし、「原爆反対をつぶし、原発を導入した功績」を柴田という人物が誇っているもので、どれだけの信憑性があるのかは分かりません。ただこうしたことを書きうるような背景があったことは事実なのではないかと思えます。まさに原発は、核兵器反対運動への対抗軸の位置を持って導入されたのです。

ではどうして当時の人々は、原水爆には対抗できても原発には対抗できなかったのでしょうか。詳しくは歴史を総括しなければならないことですが、僕は二つのファクターをおさえておくことが大切だと思います。
一つに、核実験反対運動が、低線量被曝の恐ろしさを暴くものとして進められながら、内部被曝の恐ろしさが徹底して隠されていたことで、そこまで突っ込んだ暴露がなされなかったことです。
もう一つは社会運動を担う人々の多くも、エネルギーが大きくなり、生産力が高まることが、未来の幸福の拡大の必要条件だと捉えており、原子力の利用もその一つと想念された面があることです。

その象徴の一つが、手塚治虫さんが書かれた漫画、『鉄腕アトム』ではないでしょうか。鉄腕原子君です。原子君の妹はウランちゃん。お兄さんはコバルト君。物凄い原子力一家です。しかしアトム君は「心優しい、科学の子」としてとらえられました。
もちろん手塚治虫さんが間違っていたとか、そういうことが言いたいのではありません。あれほど命を大事にした手塚さんでさえそうであったこと、つまりそれは歴史の限界であったのだと僕には思えるのです。

そしてそのことは、なぜ当時の運動が反原発へと高まらなかったのかをこれ以上、考えることよりも、まさに今こそ、1950年代に果たせなかった核の真の意味での廃絶という課題を受け継ぎ、実現すべき時なのだということを私たちに問うているのだと僕は思います。
その意味で1950年代の運動に感謝すべき私たちは、まさにあれから60年ぶりとも言えるような、大きな核反対の運動をさらに育て、今度こそ、核の時代を本当に終わらせるところにまで進む必要があります。その際の重要なキーワードこそ「内部被曝」です。
1950年代のバトンを受け継ぎ、走り、未来世代に何かを投げていくこと、それを自らに問うことが、ビキニ環礁水爆実験を、今、問い直すことであると結論づけて、この考察を閉じたいと思います。

終わり