守田です。(20121105 23:00)

みなさま。10月始めに危篤になり、一時期、小康状態を取り戻していてくれた呉秀妹阿媽が、11月3日にとうとうご逝去されました。阿媽のご冥福を心からお祈りしたいと思います。

すでにお伝えしたように、僕は阿媽が危篤に陥った時に、逝去されたとの誤報を出してしまいました。そのとき涙を流しながら追悼文を書いたのですが、今もう一度それを、リライトしています。
あのほがらかだった阿媽がもうこの世にいないというのは、本当に淋しいことです。でもつくづく阿媽は、私たちにたくさんのことを残してくれたとの思いを強めています。何よりも人間の尊厳を示して生き抜いてくれたました。人間にどれだけの力があるのかを示してくれました。彼女は頑張って、頑張って、生き抜いてくれたのです。本当にそのことに感謝あるのみです。

今、僕の前にはアマアと一緒にとったたくさんの写真があります。どの写真でもアマアは楽しそうに笑っています。一つ一つから思い出が蘇ってきます。例えば目に入ってきたのは京都訪問の際に、事前に大阪城にお連れしたときのこと。長い石段を「加油(ガユ)加油(ガユ)=頑張れ、頑張れ」といいながら登っていたアマア。
ちなみにガユは台湾語。北京語ではジャーヨウという感じでしょうか。そうやって、いつでも楽しそうに、「頑張れ、頑張れ」を自分に繰り返すアマアでした。
あるいは京都でのウエルカムパーティーで、みんなが用意したピンクのドレスに身を包んで、本当に可愛らしく笑っている写真があります。あのとき阿媽は本当に喜んでくれました。それで私たちも本当に嬉しかったのでした。アマアはいつもなんでも喜び、楽しんでくれて、それで私たちを喜ばす名人でした。

アマア。本当にたくさんのことをどうもありがとう。どうか、安らかに寝てください。もう何も心配する必要はありません。もう何にも苦しまなくていいのです。どうか静かに、寝てください。
思いは私たちが十分に引き継ぎました。アマアは若い人がもう二度と、あんな思いをしてはいけないとそう思っていたのですよね。だから何度も辛い過去を話してくれました。もう二度と若い人があんな思いを味わってはいけないと、心を込めて語ってくれました。必ず思いをつなげます。

僕が9月に台湾に行き、アマアのお宅にうかがったとき、アマアは車椅子に座って、ただうつむいているだけでしたね。もう笑う力も残っていなかったのでした。でも僕の名前はしっかりと言ってくれました。みんなの名前も間違えずに言ってくれました。

僕たちがプレゼントに買っていった羽毛の布団をみて、一言、「高いよ」と日本語で言いました。「ああ、こんなに高いものを買ってきてしまって」ときっとそう言いたかったのでしょう。小さいときからお金で苦労したアマア。だから金銭感覚がとても鋭くて、プレゼントをすると必ず何かで返そうとしてしたくれましたね。
京都で行ったウエルカムパーティーのこともずっと覚えていてくれて、「あれにはたくさんお金がかかったはずだ」と気にもし続けてくれたアマアでした。
でもアマアはその後にすぐに入院されてしまいました。だからあの布団、アマアは一度も使えなかったかもしれませんね。アマアはもったいないと思っているかもしれない。でもそんなこと、ぜんぜん気にしなくていいのですよ。

実はあのとき、アマアの姿をみて、僕は正直言うと、ショックを受けてしまいました。笑わないアマアを見たのは初めてでした。僕はアマアの笑顔が見たかった。待っていてくれて笑ってくれると思っていた。
そのために日本に帰って、僕は身悶えしてしまいました。もっと早く行けば良かった。アマアが「ああ守田さん」と言って、ニッコリ笑えるうちにいけば良かった。どうしてそうしなかったのだろうと、僕は子どものようにポロポロと涙を流しました。

でもアマア、今はそれは甘えだったと反省しています。だって1年以上、いけなかったのは仕方がなかった。僕は放射線防護で走ったのでした。いつもアマアのことが気にかかってはいたけれども、僕はそれを選択したのでした。

それに対してアマアは、僕たちが再度、行けるようになる日まで、頑張って、生きていてくれたのでした。しかも僕らが行くときに、病院から出てきてくれたのでした。それで最後の力を振り絞って、アマアの家で僕らの前に姿をあらわしてくれたのでした。今はそれが奇跡だったことがよく分かります。

もうアマアは笑えなかったけれど、でも今、思います。会えて本当に良かった。アマアは待っていてくれたのでした。そう、最後の気力で待っていてくれた。本当に感謝あるのみです。アマアは笑ってなかったのではけしてない。ただ顔の筋肉が疲れて、笑みを表わせなかっただけですよね。

アマアは最後に、小さな声で、多謝(トウシャ)と言ってくれました。笑えなくても、御礼の言葉だけは絞り出してくれたのですね。たくさんの思いを込めて僕らにこの言葉を贈ってくれたのですね。

しかもアマアはその後に危篤になってからもう一度、持ち直し、たくさんの人がお別れに来る時間すら作ってくれたのでした。僕は行けなかったけれど、東京からも本当に長い間、アマアたちと一緒に生きてきた柴さんが駆けつけてくださいました。
柴さんの前で、アマアは訪れる色々な人に、ただただ、お礼を述べていたそうですね。日本人の柴さんには「ありがとう」と日本語で。台湾の人には、あるときは「多謝(トウシャ)」と台湾語で。またあるときは「謝謝(シエシエ)」と北京語で。繰り返し繰り返し、述べていたそうですね。

柴さんはこうも述べています。
「私が帰る前日、『私はもうすぐ死ぬよ』といい、『もう一度元気になって家へ帰ろうよ』という私に静かに首を横に振りました」・・・・・。

アマアは、自分が旅立つ日が近いことを分かっていたのですね。いや、もう旅たつ間際にいるのに、少しだけ踏みとどまってたくさんの人にお礼を述べてくれたのですね。それが秀妹阿媽なのですね。いつも人の恩には必ず報いようとした。親切には必ず愛で返そうとした。
だからアマアは危篤になってすぐに去るわけにはいかなかったのでしょう。たくさん、たくさんお礼を述べなければ、旅立つことができなかったのでしょう。
そうして一ヶ月、アマアは最後の命を燃やしてくれました。出会った人々に最後の最後まで感謝を捧げ抜いて、そうしてアマアは静かに旅立たれました。

「私は今が一番幸せです。日本に来て素晴らしい人たちと会えた。守田さんたちと会えた」。2008年の京都で証言集会のときに語ってくれたアマアのあの言葉が今、耳に聞こえてきます。

あの日の発言で、アマアはこんな風に語ってくれたのでした。
「被害を名乗り出て、婦援会に会って、私の人生は変った。それまでは辛いことばかりだった。日本軍にひどいめに会い、そのために子どもを産めない身体になってしまった。結婚をしたけれど、子どもを産めないことを責められて不仲だった。あまりに淋しいので、養女を育てたけれども、それほど仲が良くなかった。
ところが婦援会に出会い、何かが変り出した。仲間ができて、こうして日本にも来ることができた。そして守田さんや桐子やみなさんに会えて、こんなにも、優しくしてもらえた。私は自分の人生は不幸ばかりだと思っていた。でも最近になってそうではなくて、最後に幸せがやってきたと思うようになった。今が一番幸せです」。

そうしてあの笑顔、たくさん見せてくれた笑顔。それが次から次へとまぶたに浮かびます。

アマア。僕もあたなと会えて、本当に幸せでした。あなたの晩年のほんの一部を一緒に過ごさせていただいて、たくさんのものをもらいました。僕はこの先、何度もあなたのことを思い出すでしょう。そうしてそのたびに、心が温かくなるでしょう。アマア。さようなら。ゆっくりしてください。先に行ったアマアたちとも会って、みんなで楽しく過ごしてね。

僕はまだこの世で走ります。人間の世に光あれと念じながら。アマアたちのことを胸に抱きながら。そうしていつしか僕も走れなくなり、アマアたちのいるところに行くことになったら、またアマアをお訪ねします。そのときはあの笑顔をまた見せてくださいね。

それまでさようなら。たくさんの愛をありがとうございました。

合掌