守田です(20180223 23:30)

4月8日に投票が行われる京都府知事選に弁護士の福山和人さんが出馬表明されました。
僕は日曜日に行われた市民勢力による福山さんを囲むミーティング、20日堺町画廊で行われた同じく福山さんを囲んだくらしとせいじカフェに参加して福山さんがどんな人かを僕なりに知ろうと努めました。
どんな考え方で出馬するのか、基本的スタンスは共感できていたので応援するつもりで、翌日21日にみやこめっせで行われた福山さんを中心とする府民大集会での応援演説を引き受けていたからでもありました。
そうしたらこの2日間だけでもずいぶんと福山さんに心を奪われました!

とくに心を動かされたのは、福山さんが堺町画廊で、僕の「なんで知事に挑戦しようと思ったのですか」という問いに応えて語ってくださった生い立ちに関することでした。
それでその内容を心に書き止め、21日の応援演説で紹介しようと思っていたら、当日、ご本人がほとんど話してしまった(笑)しかもこの時はさらなる胸をゆさぶる話も加わった。
おかげで用意した原稿の半分を没にし、大幅にアドリブを加えて演説することになりましたが、この日の福山さんの演説でも僕はさらに心を鷲掴みにされてしまいました。
いままでもたくさんの素晴らしい市議選、市長選、国政選挙の候補を応援してきましたが、出馬表明でここまで心を奪われた経験は初めてです。多くの方が書いていることですが、僕も立候補表明を聞いていて初めて涙が出そうになりました。

この日の素晴らしい発言について、京都民報がすぐに全文を掲載してくださったのでみなさんにご紹介します。
まずはじっくりとお読み下さい。またこの部分を友人・知人に知らせて欲しいです。

2018府知事選/2・21府民大集会 福山和人さんの訴え(全文)
京都民報 2018年2月22日
http://www.kyoto-minpo.net/archives/2018/02/22/post-21675.php

福山さんの発言が胸を打つのは、彼が自分の行動の原点を自らの貧しかった幼少期からの体験におき、そこから貧しき人々、苦しき人々に限りなく近づこうとする姿勢が伝わってくるからです。
というのは福山さんは子どもの頃を振り返って思いだすのは、とにかく「ひもじかった」ことなのだそうです。
両親が離婚してお母さんがおらず、おばあさんに育てられたそうですが、貧しい長屋ぐらしで、おやつは朝の味噌汁のだしに使った残りのジャコだとか、おばあさんが裏庭で育てていたパセリだったそうです。

そばにあったお寿司屋さんのゴミ箱を漁ったことすらあったそうですが、その時、おばあさんにたしなめられた。正座をさせられたといいます。ゴミ箱のことは記憶にないのだけれど、この時のシーンだけは今でも覚えているのだそうです。
おばあさんは「武士は食わねど高楊枝!というんだ」と福山さんを諭したという。貧しさに屈してはいけないという教えを与えてくれたのですね。
おばあさんは「明治の女」で、けんかで負けて帰ると「もういっぺん行ってこい」とも言われたとか。福山さんにプライド高く生きることを教え続けられたのだと思います。

やがて大学を出て、司法試験を始められた時、そのおばあさんが認知症になられた。その頃はお父さんは再婚されていたそうですが、共働きだったので「おまえは家にいて暇だろうだから介護してくれ」と言われて2年間、しっかりお世話をされたそうです。
おばあさん、徘徊をされるようになり、やむを得ず家の戸のカギを高い所につけ、キーもとれないところにおいておいた。ところが夜になるとおばあさんは外に出たくて「出せ」とドンドンと戸を叩くのだそうです。
近所からたちまち苦情が来てしまう。それで福山さんはやむを得ずに夜中の二時三時からおばあさんの手をひいて町を彷徨ったそうです。わずか20歳をすぎたばかりのころの青年福山さんの思い出です。

これを聞いたのは堺町画廊でのことでしたが、このときに福山さんは言葉につまって天井を仰がれました。涙をこらえているのが分かりました。その時は辛い思いがよみがえったのだろうなと思いました。
実は21日のみやこめっせでの発言ではこのことに触れず、ひとこと「きつかったです」とだけ語られて、その後に弁護士になって多くの困った人を手助けしてこられたことを語られました。
そのたびに思ったのは「社会の仕組みがもうちょっときちんとしてたら、もっと未然に救われる人が多いのに」という感慨だったそうです。

さらに福山さんはある54歳の無職の男性が、86歳の認知症の母親の首を絞めて殺害してしまった事件のことを語り始めました。2006年のことでした。
男性の母親は父親が亡くなったころから認知症が出始め、事件の10か月前、症状が悪化して昼夜逆転、近所を徘徊するようになりました。男性は介護を優先するために昼間の仕事を辞め、介護をしながらできる仕事を探したけれど見つかりませんでした。
困窮して生活保護の申請をしましたが「あなたはまだ働けるから」と断られ、さらに苦しくなって追い詰められ、挙句に二人で死ぬ決断をしてしまいます。
以下、福山さんはまるで一人芝居でもしているように語り続けました。京都民報掲載の発言録からこの部分を転載します。

「自宅アパートの掃除をして、親族と大家さん宛ての遺書をテーブルに置いて、母親と2人で家を出ました。2人が向かったのは、三条京阪近くの繁華街です。そこには、男性がまだ子どものころ、親子3人で食事をしたことのある店がありました。
ここで、親子は最後の晩御飯を楽しみました。夜になって、2人はもう戻ることのできないアパートの近くにある河川敷にやってきました。2月初旬の寒い時期です。何時間かが過ぎました。
もうお金もない、もう生きられへんで、これで終わりやで、犯行直前に男性は泣きながら、目を覚ましたばかりの母親に語り掛けました。「そうか、もうあかんか。一緒やで、お前といっしょやで。お前はわしの子や。わしがやったる」。
母親のその言葉に意を決して首を絞めました。その後、男性は包丁で自分の首やお腹などを刺して、自殺をはかりましたが、死にきれずに倒れているところを通行人に発見されました。」

「もうお金もない、もう生きられへんで、これで終わりやで」・・・その言葉を発するとき、福山さんはまるで当の男性が乗り移ったかのように、唇をかみしめ、天井をあおぎ、絞り出すように語られました。
なんども涙をこらえ、己をおさえ、静かに二人の悲劇を語られました。会場中が引きずり込まれ、多くの方が涙せざるを得ませんでした。そうです。これが私たちがいま生きているこの社会の中で起こっている現実なのです。

このとき僕は堺町画廊で福山さんが涙をこらえて天井を仰いだ時の気持ちがより強く分かったように思いました。福山さんはご自分の体験とこの母親を殺すにいたってしまった男性の経験を交差させていたのでしょう。だから無性に悲しかったのでしょう。
福山さんはこの男性が、裁判で情状酌量され、懲役2年6月、執行猶予3年の判決を言い渡されるも、事件の日から8年経った2014年8月に琵琶湖大橋から身を投げて自殺されたことを語りました。
そしてこう語られました。「彼と母親の命をつなぐことはできませんでした。これは政治の責任ではないでしょうか。」

そしてそこから福山さんは「夢をつなぐ」「なりわいをつなぐ」「未来へつなぐ」「人をつなぐ」ことを自らが実現したい基本政策として語られました。
詳しくは京都民報に譲りますが、その中には「ストップ貧困京都宣言」や「中小企業振興基本条例」「原発再稼働反対」「国とのパイプよりも府民とのパイプ、風通しのよい府政の運営」などが含まれています。
要するに先に述べたような悲劇が二度と起こらないような温かく、優しい、思いやりのある社会をみんなの力で築いていこうと言うのです。その一つ一つの提案に心が躍りました。
何より僕は「この人となら実際に温かい社会が実現できるかもしれない。血の通った政治、愛のある豊かな政治が可能だ。世直しが可能だ」と感じ、本当に打ち震えました。
実はそのために自分の出番でかなり高揚して飛び出していきました。応援演説に立って、これだけ出馬表明された方に「煽られた」のは初めてです(笑)

福山さんを府知事に押し上げて実現したいことはたくさんありますが、やはり僕は何より関電に対し、株主として稼働停止を迫るとともに、原子力災害対策を府をあげて充実させていくことを提案したいと思います。
なぜならばいま、全国で動いているたった3基の原発のうちの2基が京都府の目前にある高浜原発であり、さらに関電がこの春に大飯の2基をも動かそうとしているからです。
京都府民にとってまさにこれこそが最大の脅威。だからこそ福山さんと、すべての命を守るための施策を積み上げたいです。

以上から僕は今回、全力をあげて福山和人弁護士を応援することに決めました!
京都府のみなさん。ぜひ一緒に福山さんを応援してください。全国のみなさんもぜひ一緒に応援してください。