守田です。(20141212 17:00)
選挙戦も終盤ですが、昨日(11日)に郵送で届いた10日付の東京新聞を読んでいて「被災女性、原発と基地問題憤り『福島、沖縄は捨て石』」という記事に目がとまり、とても胸を打たれました。
ネットで検索したらもともと7日付けで琉球新報に掲載された記事であることが分かりました。
選挙を前にぜひ多くの方に読んで欲しいと思い、紹介記事を書くことにしました。
被災女性とは福島県から沖縄県に家族で避難してこられた方のこと。その方が「捨て石」という言葉を沖縄に行って初めて知ったそうです。「『捨て石』という言葉が福島にも当てはまる」・・・。
震災後、被曝を心配し「ふくしま集団疎開裁判」の原告団に加わられましたが2011年11月に申し立てが却下されました。その1か月後に義理のお母さまが突然亡くなり「義母に避難しろと言われた気が」して沖縄に向かわれたそうです。
記事を末尾に貼り付けますので、詳しくはそれを読んでいただきたいですが、胸が締め付けられる気がしました。
もう二度と沖縄を「捨て石」などにさせない。福島も絶対に「捨て石」などにさせない。そんな気持ちがムラムラと心の底から湧き上がってきました。
沖縄戦では民間人である島民が本当にたくさん犠牲になりました。沖縄戦に投入された日本軍兵士も「捨て石」とされました。本土や台湾からもたくさんの若者が特攻隊として飛び立ち、沖縄の空に海に散っていきました。
兵士たちは「日本を守るために闘った」と言われています。何を言うか。政府や軍部がもっと早く降伏していたら沖縄戦は必要ありませんでした。本土の都市空襲のほとんども避けられたし、広島・長崎への原爆投下もなかった。満蒙開拓団の犠牲もなかった。
日米戦争は実は前年1944年秋のレイテ沖海戦などにおける日本軍の惨敗で、軍隊と軍隊との闘いとしてはほとんど決着済みでした。
にもかかわらず日本政府は降伏しなかった。降伏の後の戦勝国からの訴追を恐れ、少しでも良い条件に持ち込みたくて時間稼ぎをしていたのでした。そのために沖縄は「捨て石」にされました。
いやその前にサイパン島など、南方の島々が「捨て石」となっていました。日本政府は本当にたくさんの人々を「捨て石」にしたのでした。
「捨て石」作戦として行われた沖縄戦の中ですら、さらに民衆に犠牲を強いる事態が繰り返されました。
米軍は1945年5月に読谷村から上陸し主力部隊を南へと向かわせました。対する日本軍は今の普天間基地や首里城のある一体に布陣して交戦。日中は塹壕に隠れ、夜になると猛烈な反撃を試みて一時期は米軍をくぎ付けにしていました。
ところが現場を見てもいない東京の大本営が「そんな戦い方は手ぬるい。全面攻勢を行え」という指示を飛ばし、現地軍の将校たちの反対が押し切られる中で、総攻撃が開始されたのでした。
米軍はこれをこそ待っていました。上空にたくさんの偵察機を飛ばし、地上に出てきた日本軍めがけて海上にひしめく軍艦から一斉に艦砲射撃が行われました。空襲も重ねられました。
夜間戦闘では米軍に打撃を与えていた日本軍は、白昼の戦闘でたちまち壊滅的な被害を受けました。明らかにあやまった作戦の採用でした。
このため日本軍はたくさんの兵士と共にほとんどの重火器も失い、軍隊と軍隊との闘いとしての沖縄戦はこのころまででほとんど決着が着いてしまいました。
ところが軍部は驚くべき方針を出しました。戦闘を集結せず、それまでの守備線を放棄して南に下れと言ったのです。南部は沖縄県民が避難していたところでした。それ自身、軍部の指示によるものでした。避難民がひしめく狭い地帯に日本軍が逃げ込んでいったのでした。
しかも日本軍は軍装を捨て避難民に紛れて逃げる方針をとりました。米軍がこれを追撃。かくして日本軍とともに県民が米軍の直接のターゲットにされてしまいました。戦線は県民がひしめいていた南部海岸にまで及び、県民の3人に1人とも4人に1人ともいわれる大量の死者がでてしまいました。
日本軍は何とか米軍の抗戦意志を弱めたくて、たくさんの特攻機をも出撃させましたが、その頃日本軍には旧式の飛行機しか残されていませんでした。しかも搭乗兵は操縦桿を握ったばかりの若い兵士たち。攻撃隊はほとんどが沖縄上空で待ち伏せしていたアメリカの迎撃機に撃ち落とされてしまいました。
僕は初めて沖縄に訪れたとき、米軍上陸地点の読谷村を訪れました。避難民が逃げ込み、自決を強いられたチビチリガマなどに入らせていただきました。深い悲しみに包まれました。さらに首里城から南部へと避難民が辿り、日本軍が後を追った道筋を車で辿りました。
沖縄戦に高校生からなる「鉄血勤皇隊」の隊員として徴用されて従軍し、司令部付伝令となって戦闘の中心をつぶさに体験することとなった後の沖縄県知事、大田昌秀さんがこの体験を綴った名著『沖縄の心』を手にした旅でした。
旅の最後には沖縄南部の平和祈念公園を訪れ、平和の礎と出会い、県民の痛みと悲しみ、その中から平和を懇願してきた思いに包み込まれました。この悲劇を無にしてはならないという決意が心に溢れました。
その後、何年も経ってから鹿児島県の知覧特攻隊基地の記念館にも行き、出撃した若者たちのことを調べました。台湾から特攻した若者たちについても文献で搭乗機と搭乗兵の名前まで調べました。その度に涙がこみ上げてきて止まりませんでした。
終戦間際の戦闘だけではありません。日本軍はどこでもかしこでも兵を大事にせず、無駄に死者を出すばかりの戦闘を繰り返しました。しかも兵士たちに絶対に投降を許しませんでした。
軍隊の中での虐待も日常茶飯事でした。そのため軍部は兵たちの駐屯するあらゆる地域に「慰安所」=性奴隷施設を作りました。ボロボロにされた兵士たちの鬱積した矛盾を、女性を暴行させることで解消させていたのでした。たくさんの若い女性が軍の「捨て石」にされ、虐待され、しばしば虐殺すらされました。
何度も言います。沖縄県民は、日本政府と軍部が命拾いをするために捨て駒にされたのでした。しかも戦闘の中でも一切、保護されませんでした。まさに何重にも及ぶ「捨て石」でした。日本軍兵士たちの大半もそうでした。とくに若くして徴兵された兵士たちはただ毎日、殴られた挙句に意味のない突撃をさせられました。
私たちは沖縄県民にも、兵士たちにも、あるいは戦場で強いられたあらゆる理不尽な行為の犠牲者たちにも、こう言い続けなければなりません。「あなたたちの死、痛みをけして無駄にしません。二度とあやまちは繰り返させません」と。
「繰り返させない」のは誰に対してか。もちろん日本政府に対してです。同時にこの太平洋戦争末期に民間人大量虐殺を続けたアメリカ政府に対してもであることを僕は強調したいです。
日本政府と軍部は確かに自分たちのことだけを考えて降伏を先延ばしにしましたが、実はアメリカ軍も日本政府が戦争を止めないように画策し続けたのでした。なぜか。どうしても開発中だった原爆を使いたかったからです。実験のためにです。
実際、アメリカのエネルギー庁は戦後長い間、広島・長崎への原爆投下を「実験」と分類していました。1945年8月にはもう勝敗の帰趨は決していたのだから原爆を落とす必要などまったくなかったのに、戦争をわざと長引かせ、大量殺戮実験のためにのみ原爆を投下したのでした。
アメリカ軍は諸都市への無差別空襲でもたくさんの非戦闘員、民間人を殺しました。その大半が子どもとお年寄り、女性たちでした。米軍は沖縄でも島民と日本兵を無差別に殺害しました。そのすべてが明らかなる戦争犯罪でした。
こんなにひどいことをされたアメリカに、戦後の日本政府ははやばやと沖縄を売り渡してしまいました。沖縄は三度、四度と「捨て石」にされてしまったのでした。その後、最も多い戦争犠牲者を出した沖縄で、島民の土地を強奪してたくさんの米軍基地が作られてしまいました。
かつて「鬼畜米英を倒せ」と国民を戦争に駆り立てた日本政府は、戦後は180度ひるがえってアメリカべったりになり、そのもとで岸伸介らA級戦犯も政界に復帰させてもらいました。そのため原爆投下をはじめとした戦争犯罪を一度も非難しなかったばかりか、朝鮮戦争やベトナム戦争など、アメリカの戦争に積極的に協力し、莫大な経済的な利益を得ました。
なんたる屈辱でしょうか。かつてもっとも同胞を残忍に、大量に殺害した国に、一言の批判も行わないばかりか、日本に行われたのと同じ虐殺方法にすら手を貸したのでした。例えば日本の諸都市に雨あられと降らされた「焼夷弾」が、開発を重ねて「ナパーム弾」となってベトナムで使われ、クラスター爆弾としてアフガンやイラクで使われました。これらの多くの兵器に日本製の部品が使われました。
僕はこの国はあまりに「自虐的な国」だと思います。とくに今の日本で「愛国」を名乗る人々の中にアメリカを批判するものなどただの一人もいません。あまりにも情けない。理不尽な戦争で亡くなっていったすべての人々がこれでは眠れないでしょう。
とりわけ沖縄県民の犠牲者は今も続く沖縄の軍事占領に心を痛め続けているでしょう。米軍に体当たりさせられたすべての兵士たちだって、今の自民党や右翼だけには墓参されたくないでしょう。
同時に私たちはこうした流れが戦後も続き、日本の戦後復興と高度経済成長が、朝鮮とベトナムの民衆に塗炭の苦しみを与えた戦争での収益の上に成り立ってきたことを今こそしっかりと見つめ直さなくてはいけません。
しかもその流れは三度国内にももたらされました。水俣湾をはじめとした全国への公害の押し付けでした。水俣病は早い時期からチッソの廃液が原因であることが分かっていました。しかしチッソが隠し、それを国が後押ししました。
全国でも同様のことが起こりました。日本列島の至る所で自然が破壊され、汚染がもたらされ、たくさんの人々が被害を受けました。ある方はこうした事態を「環境破壊」というのは正しくないと言っています。加害者と被害者があいまいになるからです。実態はどこもでも公害=政府と企業による産業優先のもとでの地元住民への被害の押し付けでした。
こうした数え上げればきりがないほどの命と生活の切り捨て、「捨て石」政策が繰り返されてきた。そしてその延長線上に福島原発事故が起こり、今、福島だけではなく、すべての被災者が「捨て石」にされようとしています。
もうたくさんだ。もうこんなことは本当にたくさんだ。こんな負の歴史は終わらせなくてはならない。この流れを逆転させなければならない。
そのために私たちは今、本当の民主主義、ラディカルデモクラシーにもとづいた行動を起こさなくてはなりません。その根本にあるのは私たち民衆の直接行動です。それはすてに福島原発事故以降、大きく育ちつつあります。
目前の投票で私たちは、少しでも私たちの声を代弁する議員を増やす努力をするとともに、議会が私たちの声の代弁の場に過ぎないことをも踏まえ、選挙結果がどうなろうとも、私たち自身の起ちあがりこそがすべてを決することをしっかりと心に刻んで前に進もうではありませんか。
沖縄の痛み、福島の痛み、切り捨てられ、踏みにじられてきたあらゆる痛みをシェアし、悲しみを抱きしめて、力強い愛の力、正義の力に変えましょう。その決意を確かなものとするためにも安倍政権絶対反対の票を投じに投票所に向かいましょう。
投票の仕方はそれぞれが決することです。自分にとって一番良い方法で投票しましょう。互いの採る方法を尊重しあいましょう。そうして選挙の日からただちに新たな団結、連帯、前進を作り出すために次の一歩を踏み出しましょう。
Power to the People! 民衆に権力を!
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福島、沖縄は捨て石」 衆院選で県内避難被災女性
琉球新報 2014年12月7日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-235487-storytopic-1.html
「捨て石」。その言葉を福島県出身の女性(47)は2012年3月、初めて訪れた沖縄で知った。11年3月の東京電力福島第1原発事故後、避難した那覇市での暮らしは3年目。
故郷の復興は見通しがつかない。沖縄県民として前回の衆院選、11月の県知事選でも投票した。沖縄で2度目の衆院選投票を控え、「捨て石」という言葉が福島にも当てはまると痛感する。
11年3月11日の東日本大震災発生時、郡山市に暮らしていた。家族は清掃業を営む夫(51)、中学生だった長男と長女の4人。
「無党派というよりも政治に無関心」。福島で投票を欠かさなかったが、候補者を選ぶ基準は政治理念や公約よりも、見た目や印象の良さが優先した。
震災後、自宅は一部損壊した。亡くなった身内はいなかったが放射線におびえた。子どもが通う中学校の土壌は除染作業で取り除かれたが、不安は蓄積した。
子どもが安心して教育を受けられる場所を行政に求め、「ふくしま集団疎開裁判」の原告団に加わった。福島地裁郡山支部に仮処分申請したが、11年11月に申し立ては却下された。
その1カ月後、義母が突然亡くなった。「義母に避難しろと言われた気がした」。福島から離れた沖縄への避難を決めた。沖縄県によると、東日本大震災の県内避難者数は11月1日現在、840人。最多は福島出身者の588人で7割に及ぶ。
夫は清掃の仕事を沖縄でも続け、不慣れな土地で取引先を開拓するため奔走する。女性もその仕事を手伝い、何とかやりくりできている。子どもたちは高校生になった。
約70年前の戦争で日本本土を守るため、捨て石にされた沖縄は戦場になった。「今も政府は基地を押し付けている」。無関心で済まされない現実を目の当たりにし、次第に政治への関心を抱くようになった。
「汚染土壌は結局、福島に建設予定の中間貯蔵施設への保管が決まった。沖縄では名護市辺野古に新基地建設が強行されている。福島も沖縄も捨て石だ」
原発、基地をめぐる問題にはいずれも命が関わる。女性は避難者や基地に苦しむ国民がアベノミクスや消費税増税の議論の影に隠れていると感じる。景気回復の実感もない。基地問題の公約を重視して今回投票するつもりだ。
衆院選中の10日、特定秘密保護法が施行される。国民の命に関わる情報に「秘密」の網がかけられないかと懸念する。
「多くの国民が声を上げると、権力者は自分勝手に動きにくい。だから政治への関心が高まらないように、権力者が仕向けていると勘繰ってしまう。私たち有権者が関心を持ち、1票を投じることは大切だ」(島袋貞治)