守田です(20210303 23:30)

【ご注目】 3月7日午後二時から舞鶴市でお話しますがzoomからもご参加できます。お申し込みはこのアドレスまで  kssbkeep-shikeep@yahoo.co.jp 詳しくは「明日に向けて(1995)」をご参照ください。

● ビキニデーとは・・・・原水爆に対して女性たちが起ちあがり、世界に波及していった

一昨日3月1日はビキニデ―でした。1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験(ブラボー)を行ったことにちなむ日です。
ブラボー水爆は広島原爆の1000倍の破壊力を持っていました。莫大な量の放射線物質も飛散させ、マーシャル諸島の多くの人々や日本のマグロ漁漁船、第五福竜丸などを被爆させ、同船の乗組員23人全員が急性放射能症にかかりました。
この事件をきっかけに日本の中で原水爆に反対する大きな運動が巻き起こりました。とくに東京都杉並区の鮮魚商菅原トミ子さんなどの呼びかけて始まった女性たちによる原水爆禁止を求める署名が、瞬く間に広がっていきました。

この過程のことを描いたNHKの番組を見つけたのでご紹介します。貴重な映像が使われています。ぜひご覧下さい。
「その時、歴史が動いた 3000万の署名 大国を揺るがす」 (世界の原水爆禁止運動のきっかけ-母親たちの反核運動のタイトルでYouTubeにアップされています)
https://www.youtube.com/watch?v=zZkNX9GvXao

動きだしたのは子育て世代を中心とする女性たちでした。食卓に魚を乗せられない。そればかりか日本に降る雨からも放射性物質が検出され、パニックすら起こる中、女性たちが新聞への投稿を始め、声をかけあい、起ちあがっていきました。
とくに杉並で始まった署名は世界にも波及し、やがて1955年8月6日の第一回原水爆禁止国際大会の実現に結びつきました。この場で署名が国内で3000万人を超え、世界で6億人を超えたことが報告されました。
番組では紹介されませんでしたが、女性たちの起ちあがりは、平塚らいちょうさんなどを中心とした母親運動をも作りだし、1955年6月に全国母親大会、7月スイス・ローザンヌでの世界母親大会も開かれました。

● 女性たちの奮闘で核実験がとまった!

この運動は核保有国に大きなプレッシャーを与え、やがて1963年にアメリカ・旧ソ連・イギリスによる「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」の締結を生み出すことに結果しました。
世界中の女性たちの運動が、大気中核実験を禁止に追い込んだのでした。それが日本の女性たちの動きを発火点としていたことをしっかりと記憶にとどめたいです。
ビキニデーはこのようにして世界に波及した原水爆禁止運動を記憶にとどめ、継承していくべく日として、毎年、さまざまな企画が行われています。

これらを考えるときに、あらためて女性たちへの感謝の念を強く感じます。1959年に僕を産んでくれた母もその一人でした。母は積極的に運動を担ったわけではありませんが、僕が幼少のころ、雨に当たってはいけないと度々さとしてくれました。
母が第一子である兄を出産したのは1952年6月のこと。第五福竜丸が話題になったとき、彼女は1歳9か月の幼児を抱えていました。その後、僕が生まれるまでに母は妊娠中絶を経験しました。兄と僕の間に生まれなかった子がいたのでした。
その間、米ソは核実験を続け、放射性物質をばら撒き続けていました。母の妊娠中絶との関係は分かりませんが、それでも母が再度妊娠し、ようやく出産に漕ぎ着けた息子の僕を、放射能から守ろうとさまざまに心を砕いただろうことは想像できます。


昨年他界した兄、和也と。兄と僕の間に一人の生まれなかった兄弟姉妹がいた・・・

もちろん僕の母だけではありません。僕と同年代のほとんどの方が、母親から「雨にあたってはいけない」と言われた経験をお持ちです。母の世代の女性たちが、私たちの世代を守るために奮闘してくれたのです。
その意味でビキニデーは、命を守ろうとしてくれた多くの女性たち、それを支えた諸先輩方への感謝をささげる日でもあると思います。
大事なことは日本政府は加害者アメリカにひれ伏して、そんなことは一言も発しなかったということ。女性たち、庶民の声が核の被害を部分的に押しとどめたのです。だから国と民衆を分けて考えなくてはいけない。被爆国論の見直しを訴る由縁です。

続く

#ビキニデ― #ビキニ環礁 #核実験 #第五福竜丸 #原水爆禁止運動 #原水爆禁止署名 #菅原トミ子

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