守田です。(20160124 23:30)

悲しいご報告です。1月11日に台湾の旧日本軍性奴隷問題犠牲者の陳桃(小桃)さんがお亡くなりになられました。享年94歳でした。
僕は第一報を亡くなられた2時間ぐらいあとに台湾の友人から教えていただいたのですが、ちょうど台湾総統選の最中であり、政治利用を避けたいとの判断もあって、暫く公表を控えて欲しいともお願いされました。
その後、アマのサポートを続けてきた台北市婦女援助会から追悼文が出され、台湾のマスコミ報道にも載りました。それでも僕は原発ケーブル問題の分析をしなければならなかったこともあり、ご報告が遅くなってしまいました。申し訳ないです。

ともあれ今宵は、アマのご冥福を心の底からお祈りしたいと思います。
またアマの遺志をしっかりと受け継いで、今後も走り続ける決意をみなさまの前に明らかにしたいです。
アマに心の底から感謝しつつ、ただ合掌あるのみです。

アマの逝去について記された婦援会発行の「阿媽之友 電子報」日本語翻訳版を転載します。
ちなみに「小桃」アマというのは陳桃さんのニックネームです。他にも桃という字を使うアマがおられたため、小柄な陳桃さんが「小桃」アマと呼ばれ続けたのでした。

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【さようなら、小桃阿媽、あなたの精神は永遠に私たちの心の中に生き続けます】
台湾で最も毅然としていた、女性の人権と命の闘士を追悼する

2016年1月11日(月)夜8時過ぎ、台湾最高齢の女性の人権のために闘った陳桃阿媽が病気のため亡くなった。享年94歳だった。

昨年2月中旬、阿媽は関節の悪化に加え、脊柱側弯症、慢性閉塞性肺疾患、消化管出血等の病気を併発している、と診断された。一人での生活は困難となり、入院、治療の後、南区の老人ホームで暮らしていた。
先月中旬、阿媽はインフルエンザに罹り、入院、加療中であった。ところが、阿媽の容態が急変し、今週月曜日の夜8時過ぎ、安らかに息を引き取った。
大変残念でならないが、阿媽が病苦から解放され、苦難に満ちた生涯の重荷を下ろし、安らかに眠ることを願う。

小桃阿媽、1922年生まれ、台北市出身。3歳の時に母を亡くす。家の暮らし向きは大変厳しかった。
19歳の時、インド洋のアンダマンに売り飛ばされ、「慰安婦」になることを強要された。一日に10人から20数人の客を相手にさせられたが、一度も給料をもらったことがなかった。阿媽は、アンダマンの慰安所内で三度も自殺を図ったが、未遂に終わる。
日本が敗戦すると、小桃阿媽は、どうにかこうにかやっとの思いで船に乗り台湾に戻った。既に24歳になっていた。
列車で台北に行き、家族を尋ねると、可愛がってくれた祖母は亡くなっていた。年長の親族は聞くに堪えない侮蔑の言葉を浴びせ、阿媽を家から追い出したので、住むところがなくなった。
小桃阿媽は、あちこちで賄い婦として働き、28歳で結婚したものの、子どもができなかったため、姑に無理やり離婚させられた。45歳で再婚した後は、いつも怯えながら戦争中の不幸な境遇に声をひそめて忍び泣いていた。
その後、阿媽は台湾・屏東市場の露店のそばに建てた鉄板の小屋に長く住み、90歳まで椰子の実を売りながら、自力で生活を立てていた。

阿媽には、生涯にわたる二つの願いがあった。
その一つは「学校に通い、一日教師になること」、もう一つは「日本政府の正式な謝罪を受けること」だった。

2011年、小桃阿媽は90歳の誕生日を迎えた。ちょうど日本での証言集会に参加するため、台北に来た時だった。婦援会が開いた祝賀会の席で、はっきりと「日本政府がすぐに謝罪すること」という宿願を語った。
阿媽は、長年にわたり、勇敢で毅然とした態度で、「慰安婦」、女性の人権運動の第一線に立ち続けた。昔を想い、涙を流すことはあっても、委縮したり、正義のための如何なる闘いの機会も放棄したりしなかった。
阿媽は、我々に数限りない思い出だけでなく、不撓不屈の強靭な精神と逆境に立ち向かう勇気を残してくれた。阿媽は、痩せ衰えても強い意志が表れていた。それは苦難の人生で鍛錬された智慧と強靭さであり、無限の勇気と力を放っていた。

小桃阿媽、あなたのすべてに感謝します。正義は死なず。あなたが安らかに旅立たれることを願っています。訳:夏井町子)

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僕が小桃アマと初めてお会いしたのは、アマたちが6人で参加して下さった2007年の東京での証言集会の時のことだと思います。
京都に他の3人のアマをお呼びし、アマたちととても仲が良くなってからのことでした。その後、何度も台湾にも行くようになり、アマたちのワークショップにも参加させていただいてその度にアマとお会いすることができました。

子どもの頃、学校に通うのが大好きだったアマは、日本語もしっかりと学校で身に着け、その後も忘れずにいてとても流暢に話してくれるので、いろんなことを話すことができました。
アマはいつもこんな風に言っていました。
「日本政府はね、ずるいよ。どうして自分たちのしたことを認めないんだい。私はね、お金なんかいらない。ただ謝って欲しいんだよ」・・・。
そう。アマはいつも、しっかりとした日本語で、途中で涙声になりながら、こう言い続けました。「日本政府はね、ずるいよ」・・・その言葉が今も耳にはっきりと残っています。

このときは江戸東京博物館にもアマたちと一緒に見学に行きました。いろいろな展示をみてまわったあとに、昭和初期のさまざまな小物が置いてあるコーナーにいきました。
お手玉などもあって、何人かのアマたちが楽しそうに遊び出しましたが、小桃アマが真っ先に取り上げたのは尋常小学校の教科書でした。
広げてみたら「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ。」とか「キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。」とか書いてある。

でもアマは懐かしそうにその教科書をなでながら僕に言いました。
「私たちはね、これだったんだよ。あんたたちはもう違ったでしょう?」
その時、アマの眼は笑っていました。軍国主義だろうがなんだろうが、アマは学校で学ぶことが大好きだったのです。だから教科書が懐かしかったのです。
そんなアマはもっともっとたくさんのことを勉強したいと思っていた。でもそんな少女の楽しい夢は、旧日本軍によって、無残に切り裂かれてしまったのでした・・・。

にもかかわらず、謝ろうとしない日本政府に対して、アマは、しっかりとした日本語で「日本政府はね、ずるいよ」と言い続けた。何度も何度も言い続けたのです。
日本政府の誠実な謝罪を求める気持ちはアマたちに共通のもので、けしてそこに強弱があったわけではありません。
そのことは十二分に分かっているつもりなのですが、それでもどこか僕には、一番、強く日本政府の謝罪を、心からのお詫びを求めていたのは、小桃アマであったようにも思えてしまいます。
そのアマにとうとう日本政府は最後まで謝りませんでした。そうして私たちも、謝罪を引き出してアマに届けてあげることができませんでした。そのことがただただ悲しいです。申し訳ないです。

罪を犯しながら、認める潔さを持たず、ごまかし続けてきた日本政府。その「ずるい」姿勢をただすために、アマは何度も日本にやってきました。
あちこちで証言をし、裁判を行い、国会などにも出向きました。辛い話、辛い気持ちを、何度も涙を流しながら伝えてくれました。そのことにただただ感謝あるのみです。
今、僕に、そして私たちにできることは、アマの遺志をしっかりと受け継いで、日本政府のあまりに「ずるい」あり方をただすため、そのことでアマたちの尊厳を取り戻すために行動を続けることです。
そのための、心からの固い決意を、アマに捧げたいと思います。
小桃アマ。去年の秋にお会いしたのが最期になりましたね。
「また会いに来るからね」と言いながら病室を出ていく私たちに、アマはベッドで横になったままうんうんとうなづいて手を振り続けてくれましたね。
アマはきっと、まだまだ生きて、日本政府をただす意志を私たちに示してくれたのですね。最期までそんな姿を私たちに見せてくださったのですね。
そのあとにアマはもう本当に疲れてしまって眠りにつかれたのだろうけれども、でもアマ、94歳まで、本当によく生きてくださいました。

あんなに辛いことがありながら、たくさんの涙を流しながら、アマは生きて、生きて、生きて、そして本当に最後まで日本政府をただそうとしてくださいました。
アマ、ありがとう。本当にありがとうございます。アマの思いはみんなでしっかりと受け取りました。ここからは私たちがアマの分まで走り続けます。
だからどうかゆっくりとお眠りください。もう泣きながら証言してくれなくていいんだよ。もうあの頃の辛い思いを語ってくれなくていいんだよ。

いつまでもアマを忘れません。
だからアマ、今は、さようなら。本当に、たくさん、ありがとうございました。

合掌