守田です。(20150108 23:30)
これまで世界を破壊の淵においやっている新自由主義とケインズ主義に通底していたものを、宇沢弘文先生の『近代経済学の再検討』を参照しつつ見てきました。今少しこの内容を続けるところから、私たちが失ってきたものを考察したいと思います。
昨日、引用した点に続いて宇沢先生は次のように指摘されています。(なおここから宇沢先生のことを「宇沢さん」と呼ばさせていただきます。)
「市場経済制度に内在するこのような問題点は、高度成長期における政府の公共投資、開発政策によっていっそう拍車をかけらることになった」
「この期間を通じて起きた日本列島の変貌は、おそらく日本の長い歴史にその比をみないほどの規模であったに違いない」(同書p10)
宇沢さんは続けて、私たちを取り巻く自然やそのもとに成立した社会環境が、そこに住まう人間の生き方や考え方、文化の形成に大きな影響を与えてきたことを指摘します。
しかもそれがどのように構成されているのか。環境の私たちに与える影響のメカニズムがどうなっているのか、今の科学ではとてもその全貌をつかめません。
私たちが環境に対してもっている知識はほとんどが歴史的体験を通じて継承されてきたもので、近代科学のように、ある原理から論理的に導き出されたものではありません。
ところが現代社会はこうした数々の土地にまつわる伝承を無視し、もっぱら「儲かることは良いことだ」という価値観に基づいて、大地を切りひらき、自然を次々と破壊して人工物をしつらえてしまいました。
「高度成長期の開発計画は、環境のもつこのような歴史的、文化的側面を無視し、伝承の教えるところに反して、もっぱら経済的側面に焦点を当て、しかも論理定式化が可能になる点だけを抽象して考えてきた。
しかも、経済的効果を市場経済制度の枠組みの中で評価し、その費用についても社会的費用を無視して開発計画が策定され、実行に移されてきたのである」(同書p12)
ここでいう「社会的費用」とは自動車を作り増やしたことで、人が歩く道が自動車に奪われ、その上危険にさらされたり、さまざまな生活環境の悪化が起こったこと、本来、それも自動車の費用として社会的に計上されるだということを指しています。
宇沢さんはこう説いて、スピード化と経済的利便性などプラスの面ばかりが強調される高速道路網や、新幹線の延伸によって、私たちの国土から多くの「大切なもの」が奪われてしまったことを鋭く批判しています。そうして高度経済成長の矛盾をこうまとめます。
「高度成長の欠陥をひと言にしていえば、経済活動と環境との相克を狭義の経済的規範によって処理し、環境のはたす文化的、社会的な機能について十分な留意をしてこなかったということである。
それはまたさまざまな開発計画、経済政策の策定に主体的な役割を演じてきた人々、とくに中央官庁の官僚群の考え方と行動にもかかわる問題である。」
「(これらの人々は)環境と経済との相克というすぐれて文化的、人間的な問題について、はたしてどれだけ理解し、あるいは少なくとも理解しようと努めてきたのであろうか」(同書p16~17)
ここには宇沢さんの現代社会批判の核心があります。高度経済成長はそれまでの私たちの社会の歴史的、文化的豊かさ、人間的あたたみや優しさというものをまったく無視して、中央官僚の冷たい計画によって行われたのでした。
これに対して先にも述べたように左翼勢力も高速道路網の拡大や新幹線の延伸などの開発の連なりが生み出している負の側面に十分に批判的たり得なかったと僕は思います。なぜなら社会主義思想の影響を受けた左翼思想においては、資本家と労働者の間の階級対立が最も重大なものとして考えられ、生産物の配分をめぐる社会的不平等のみに批判が向きがちだったからだと思えます。
あるいは政府がアメリカの戦争政策に追従していることを批判し、第三世界との連帯を訴えるなど、日本の成長の中身を問う観点もありましたが、それでも自動車や新幹線のもつ矛盾などにはほとんど踏み込めてなかったのではないでしょうか。
とくに1960年代後半には大きなベトナム反戦運動が沸き起こりましたが、そのエネルギーは自民党田中角栄による「日本列島改造論」の中に吸収されていってしまいました。開発利権のバラマキを、歴史や文化の継承の中から破りきることができなかったのでした。
忘れてはならないのは、こうした新幹線の延伸などの重大な電力供給源としてまさにこの時代に原子力発電所が日本中に作られてきたことです。
同時に高度経済成長は、農の営みをはじめとしたいわゆる第一次産業を時代に遅れたものとして軽視し、工業や商業こそが時代の花であるとしてもてはやしていく価値観とセットで広がっていきました。
このため農村から都市への膨大な人口の移動が起こりました。農民の離農とブルーカラーへの転身の促進でもありました。現代ではさらに工業も軽視され、商業、それも利ザヤで儲けていく、博打のような「産業」がもてはやされつつあります。
私たちの国はこうして大地からどんどん足が離れ、遠のいていく方向に進んでしまいました。命の源である食べ物の生産を軽視し、食べ物を作り上げる人間関係を壊してしまい、自然から遠いところにあるサイバー空間を作り上げてきてしまったのではないでしょうか。
もっともこうした巨大開発に対して、主要には現地の人々を中心とした抵抗が各地で起こりました。中でももっとも大規模だったのは成田空港反対運動でした。
この運動は戦後に入植した貧しい農民たちの、土地を強奪する国への反乱として起こり、多くの人々の共感を得ましたが、実はその前身にあったのは富士山麓において、米軍や自衛隊に大地を奪われながら入会権を主張し、基地に果敢に抵抗した北富士の農民たちの運動でした。
さらにそこには明治維新による土地改革によって入会権を奪われた人々が、明治から大正、昭和と貫いて抵抗を行った岩手県小繋の農民抵抗運動が流れ込んでいました。
そこに賛否両論はあるにせよ、これらの抵抗が政府の暴力的な対応を押しとどめ、民主主義を成長させる要素も多分にもっていたことを忘れてはなりません。
例えば成田空港反対運動を見たときに、自らの土地にしがみついて抵抗する農民に対して、政府は警察・機動隊を何万と投入し、強引な土地強奪を行おうとしました。
だからこそ農民たちが身体をはって抵抗し、多くの人々の共感を生んだわけですが、こうした激しい民衆抵抗が起こる中でこそ、私たちの国では警察・機動隊が住民運動の前面に登場して暴力的に襲い掛かることが少なくなってきました。
警察・機動隊の民衆への襲い掛かりという点では、今の政府よりも何十年も前の政府の方が圧倒的に狂暴だったことを私たちは知っておく必要があります。
それはもっと前の砂川闘争や安保闘争、いや1950年代のさまざな民衆運動などでも同じです。警察は今もよりもずっと暴力的でしたが、これに対して連綿たる抵抗が行われたことが、私たちの国の民主主義を成長させ、人権をより強いものにしてきたのです。
とくに原発についていえば、こうした現地の抵抗運動の広がりで、1970年代を最後に新たな原発の建設はできなくなりました。民衆運動の大きな前進がそこに示されていました。
しかし無念なことに日本の抵抗運動の主軸にいた左翼勢力は、この各地の農民の抵抗、開発に対する一次産業に携わる人々や地域の人々のさまざまな抵抗と連帯する中から、生産力の発展が社会の幸せをもたらすという成長神話を越えた新たな思想を紡ぎ出すところまでには十分にいたれなかったのではと思えます。
そうした中で私たちは、古くからの街並み、自然環境、そしてそれが連綿と形成してきた古き良き人間関係の多くを失ってしまいました。多くの共同体の人間的紐帯が解体されてしまいました。
中でも最も激しく解体されてきてしまったのが農の営みと農村共同体だったのではないでしょうか。今や農村人口は高齢化しつつ激減の一途を辿っています。
しかも農の営みの中にも「儲かればそれで良い」という産業的価値観が流入し、大地の恵みを感謝していただくのではなく、大量の化学肥料や除草剤などを投入し、企画化された「売れる製品」づくりの場へと変貌してしまいました。そのことで作物の栄養そのものが安全性とともに低下してしまいました。
続く
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