守田です(20230808 13:00)

NHKBS1スペシャルの文字起こしの3回目をお届けします。小見出しは守田がつけました。なおここから後編となりますが、冒頭の3分半ぐらいは前半のダイジェストなので割愛しました。

● アメリカは西山地区で被爆による健康被害を克明に調べていた

NHKBS1スペシャル「原爆初動調査 隠された真実」-3回目
後編 見過ごされた被害 そして世界は核を求めた
2023年8月6日再放送 

ナレーション
爆心地から3キロにある長崎市西山地区です。
山を隔てているため、原爆の熱戦や爆風は届かず、直接の被害はほとんどなかったとされています。ところが戦後になって、住民の体調不良や、突然亡くなるケースが相次ぎました。

原爆投下から30年余り、それまで元気だった働き盛りの男性が、突然白血病で命を落としました。

岩﨑恒子さん(85)です。
西山地区で生まれ育った夫の岩﨑精一郎さんを44歳で亡くしました。

「これがミカン狩りをした時の写真。」

精一郎さんは、他の農家に先駆けて観光農園を開くなど、地域の期待を背負った存在でした。

「元気だったですもんねえ。『長崎県一になる、みかんば植える』一生懸命、意気込みしてたんですけどね。」

4人の子どもにも恵まれた精一郎さん。それは突然の宣告でした。

「白血球がものすごく多くて、人の何倍もあるって言われて。あとね、三月ぐらいですよって。私には絶対、俺は死ぬってことは、言わなかったですもんね。でも最後にはね。(子どもを)学校だけは出しなさいって。」

「私、(医師に)聞いたんですよ。これ原爆の関係ですか、身から持ち出しですがって聞いたら『わからない』っておっしゃいました。」

夫の死後、農業の仕事を引き継ぎ、四人の子どもを育て上げた恒子さん。なぜ夫は白血病で命を落とさなければならなかったのか。今も考え続けています。

「(婚姻時の写真を指して)これね、私が亡くなったら、ひつぎに入れてくれって言ってるんです。
お年寄りが手をつないで歩いていく姿を見てね。私も年をとったら、あんなんして手をつないで歩きたかったなと。

原爆にあったからこんな病気になったとはっきりしたらねえ、いいんですけど。それも分からないまま。」

こうした住民たちの疑念をよそに、アメリカは西山地区で、長期にわたって調査を続けていたことが分かりました。

原爆投下から5年後の1950に纏められた残留放射線の報告書です。詳しい聞き取りと共に、住民の写真も添付されていました。

報告書
「農家の中尾夫人は、原爆が投下された時にかぶっていた綿のほおかぶりを倉庫から持ってきてくれた。彼女は原爆の後にやってきた泥の雨が、このてぬぐいの上に降ったと語った。」

中尾恒久さん。86歳です。
「ははあ。これはここですねぇ。これはたぶんうちの母親でしょうね。」

写真の女性は母親のたかさんでした。原爆が投下された時、10歳だった中尾さん。アメリカの調査団が家を訪れ、雨について調べていたことを覚えていました。

中尾さん
「原爆の落ちたときは暑かったとですもんね。雨降ってきたちゅうて外に出おったとですよ。雨っていうてもドロドロした、ちょっと油っこかった雨だったですよ。」

報告書では、残留放射線と雨との関係について分析していました。
「住民によると西山地区に降った雨は赤みがかった黒色で、異物が混じった大粒の雨だったと言われている。
配水管が詰まるほど濃い雨で、貯水池の水には苦みがあり、1週間ほど飲めなかったと語った。」

中尾さんの母親が8月9日に使っていた手拭いについても調べられていました。

「中尾夫人のほおかぶりをX線フィルムでサンドイッチ状態にした。そして横田基地のラボでそのフィルムを現像すると、おなじみの放射性物質の斑点が見られた。」

アメリカはどれだけ放射線が残留しているか、中尾さんの畑や家の屋根などあらゆるサンプルを集めていたのです。

先祖代々、農業を営んできた中尾さん。調査団はこの畑についても入念に調べましたが、その理由については明かしませんでした。

「ちょうどあそこら辺の、ハナモモが植わっている辺やったですよ。(調査員が)傘をさしてですね、泥をとって。当時は目的とか何とか、そういうことは言わんですね。」

● 西山地区は核爆発による放射性物質拡散のモデル地区にされていた

なぜ、アメリカは西山地区を調査し続けていたのか?私たちは、報告書を作成した人物の遺族を訪ねました。

マーグレット・レベンソールさんです。

今年父親の遺品を整理した時に、膨大な原爆の資料を発見しました。
「原爆に関する研究は重要性が高いと思ったので全部残しておきました。」

父親の名前は、リオン・レベンソール。

放射線を分析する装置を開発する会社、トレーサーラボ(Traser lab)に務めていました。レベンソール残した手記には、西山地区を訪ねた理由が書かれていました。

「Traser labは空軍と契約していて AFOAT-1(Air Force Office Atomic Energy1)と呼ばれる秘密組織が存在した.。
その目的はソビエトの核実験の爆発の際に出る放射性物質の検知であった。」

当時、ソビエトは初めての核実験を成功(1949年)。米ソの核開発競争が激しさを増していました。

レベンソールは大量の放射性物質が降り注いだ西山地区をモデルに、核爆発で放射性物質がどのように広まるのかをつかもうとしていたのです。

レベンソールの部下の、ロドニー・メルガードさんです。西山地区には大量の放射性物質が残されており、格好の研究場所だったと言います。

NHK取材班スタッフ
「広島・長崎の原爆で、残留放射線は存在していましたか?」

ロドニー・メルガード
「はい、もちろん。原爆を開発した科学者たちは正確に把握していました。爆発直後、放射性物質の90%は空気中にあり、小さな粒子が風に乗って浮遊していたはずです。
風下であれば数㎞離れた場所でも、命を脅かすような放射線の影響が出ていたでしょう。」

西山地区の土をアメリカに持ち帰ったレベンソールは、人体への影響の手がかりも見つけていました。放射性物質の核種です。
核種とは原子核の種類のことで、陽子と中性子の数によって放射性物質の種類を特定できます。

リオン・レベンソール
「我々はバークレーに戻って土を分析したところ、放射性ルテニウム(Ru-106)とセリウム(Ce-144)が見つかった。これらは最初のプルトニウム原爆(長崎原爆)から出たものであることが確認された。」

私たちはレベンソールの資料を、残留放射線を長年研究する物理学者の星正治教授と、放射線影響科学専門の大瀧慈教授に見てもらいました。

広島大学星正治名誉教授
「こういう測定ができるというのは、ものすごい量の放射能があります。僕の感覚から言うと。このルテニウムとセリウム。これはよく核実験の後で見つかる「核種」やから。
体にもし入ったとしたら、放射能によって体のどこにいくか、「プルトニウム」や「ストロンチウム」は骨にいくとか、「セシウム」は筋肉とか違うから、だから核種の同定は必要ですよ。
広島・長崎の「核種」を同定(確定)した話はないと思うな。」

もし、核種の情報が日本に伝えられていたら、原因不明の死や、体調不良を訴える住民の為の研究が進んでいた可能性があります。

広島大学大瀧慈名誉教授
「なぜいままで隠されてきたか?公やけな、公的なね、報告がなされてきてなかったか?そちらこそ問題があると思うんです。」

「この結果、このデータに関連するようなですね、調査とか研究が行われていないとは、むしろ考えにくいんですよ。」

1950年にレベンソールが(米)国の原子力委員会で行った報告です。

レベンソール
「長崎と広島で低レベルの放射性物質が、広範囲にわたって点在し続けている証拠に多くの関心が寄せられた。
被爆地域の肥料に現地住民のし尿が用いられるため、除去された放射性物質はその地域に戻されるだけでなく、汚染されていない地域にも散布されることが考えられる。

残留放射線の影響は、アメリカが行っている被爆者の遺伝子研究にも重要な意味を持つ可能性がある。」

アメリカは日本が独立した後も、残留放射線の影響を継続しました。しかしその成果は、西山地区の住民達に伝えられることはありませんでした。

アメリカの調査対象になっていた西山地区の住民、中尾恒久さん(86)です。

訪問した診療所の医師
「きょうは甲状腺の超音波の検査をしますからね。」

長年、病に苦しみ続けてきた中尾さん。二十歳の頃、甲状腺機能低下症を発症。その後、ガンにも見舞われました。西山地区では甲状腺の病に苦しむ人が少なくありません。

医師
「ここにあるのが甲状腺ですよ。ちいとこれが小さい。萎縮しているんですね。」

しかし残留放射線との関係は今もほとんど明らかになっていません。

NHK記者
「(調査結果について)ちゃんと説明を受けたことはありますか?」

中尾さん
「いや、そりゃなか。放射能がそんなに残っとっていうとに知らせずに調査して。ほんとうに。何十年もあれして、住んどっと所に住まれんっていうことは、聞きとうもなかったですけど、しかし聞きとうなかっても、事実ば教えてくれないとですねえ。」

● 被爆するがままに任され観察され続けた西山地区の人々

西山地区に住んでいた義理の妹を亡くした松尾トミ子さんです。松尾さんは幸子さんの死に対して、今も割り切れない思いを抱いています。
今回、幸子さんの死因について1980年に長崎大学がまとめた報告書を入手しました。

長崎医学会報誌 43巻9号  809-813頁
所謂、「西山地区」より発生した慢性脊髄性白血病の一例(急性転化例)長崎大学原研内科教室
富安孝則(とみやすたかのり)・岡部信和(おかべのぶかず)・松本吉弘(まつもとよしひろ)

飲み水を通して、体内に放射性物質が取り入れたれた可能性が指摘されていました。
「しかしこの一例のみでは、残留放射線との因果関係は断言できない」と結ばれていました。

NHKスタッフが松尾トミ子さんと面談し「長崎医学会報誌」を見せて説明
「こういう所にすごく高い残留放射線が測定されていた。だけど公表されていなかったということなんですよね。」

松尾トミ子さん
「ええ、ええ。」

私たちはアメリカが原爆投下の5年後には確証を特定し、人体への影響について研究を続けていたことを伝えました。

松尾トミ子さん
「いやあ、はっきり言って腹が立ちますよね。うん。これは人として見ていないみたいな感じが私はするんですよ。実験みたいにしてるなって。そういうふうにしか取れないですね。」

実は西山地区では、長年放射線の影響が噂されていました。しかし農業で生計を立てる住民が多く、誰もそれを自分から語ろうとしなかったといいます。

松尾トミ子さん
「父もお野菜作っていたんですよ。市場に持っていってたんですよ。それをして生計を立てているから、売らないといけない。だけどそれを言ったら、自分たちの生活が成り立たない。」

「何か言ったら、みんなから変な目で見られる。村八分になる。そういう気持ちがあったんじゃないかなと思いますけどね。」

西山地区の白血病と残留放射線との因果関係は今も証明されていません。

長年、西山地区の白血病について研究を行ってきた、長崎大学の朝長万左男(ともながまさお)名誉教授です。原爆との関係を証明するのは容易ではないとしています。

朝長教授
「普通の人からも10万人に1人か2人は慢性骨髄性白血病は出るんですよ。
「それと混同していませんか」と、言われると「いやいや、これははっきり原爆の放射線で起こっているんですよ」と言うにはどうですか。相当な根拠がないといかんですよ。そこですね。
(残留放射線は)累積していくわけだから、本当はそれが計算できないといけないけど、生活パターンが非情に、その時に福島でも同じような問題が起こっているのですけどね。外にどのくらい出ていて、家の中でどのくらい生活していたのか。
そうしたことを毎日記録している人なんていないでしょう。そういうところに壁があってね、福島でも正確な被爆線量を出すことは非常に難しいんですよね。」

アメリカが残留放射線を否定したことは、何をもたらしたのか?

朝長教授
「残留放射能の研究が進んでないでしょ。例えばプルトニウムが人体に入っててね、これも残留放射能でしょ、ある意味でね。それが、今頃分かってんのよ。
一生懸命にその当時にやっていれば、もっといろんなデータが出たはずでしょ。そういう事ですよね。そこに科学者でもない陸軍のトップがね、「無い」と判断するのは、もう、政治以外の何ものでもないですよね。」

続く

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