守田です。(20140414 09:00)
3月30日に奈良市民放射能測定所の開設1周年記念企画でお話した内容の起こしの2回目です。 今回も旅の報告の続きです。ベルリンでセバスチャン・プフルークバイル博士とクリスティーナ・プフルークバイルさんに本当に親身になって助けていただきました。 大変、ありがたかったのですが、深くご心配、ご迷惑をかけて恐縮するばかりです。
この自分の状態を改善し、次はもっと元気に各地を周れるようにするため、今月末に手術を受けるつもりでいます。 今は術前検査中で、今日も生検を受けます・・・。すべてが順調にいくと良いのですが。
なおこの講演録は、奈良市民放射能測定所のブログにも掲載されています。前半後半10回ずつ分割し、読みやすく工夫して一括掲載してくださっています。 作業をしてくださった方の適切で温かいコメント載っています。ぜひこちらもご覧下さい。
守田敏也さん帰国後初講演録(奈良市民放射能測定所ブログより) http://naracrms.wordpress.com/2014/04/08/%e3%81%8a%e5%be%85%e3%81%9f%e3%81%9b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bc%81%e5%ae%88%e7%94%b0%e6%95%8f%e4%b9%9f%e3%81%95%e3%82%93%e5%b8%b0%e5%9b%bd%e5%be%8c%e5%88%9d%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%ae/
以下、旅の概要を主にヘルスコンディションの面から語った内容の後半をお届けします。
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「原発事故から3年 広がる放射能被害と市民測定所の役割 チェルノブイリとフクシマをむすんで」 (奈良市民放射能測定所講演録 2014年3月30日―その1)
Ⅰ. 1ヶ月にわたる旅を振り返って(下)
【腹痛を抱えて長距離移動に次ぐ移動。最後はベルリンの病院へ】
それから翌日に、イズミルというエーゲ海沿いのところに移動したのですけれど、「ちょっと移動が大変なんだ」と言われました。どう大変なのと聞くと「まず3時間バスで移動するのだよね」と。 お腹が痛いですからね、「3時間か、けっこうつらいな」…と思うと、実際には3時間ではなくて、もうひとつのバスにさらに1時間乗ってですね、やっとたどり着いたのがサムソンという空港なのです。 ではこの空港からイズミルに行くのかと思ったら、「いやいや、1回では行けない。まずアンカラに飛んでそれからイズミールに行く」とのこと。2回のフライトです。 その挙句についたイズミル空港からまたタクシーで30分ぐらい走って、ホテルに着いたのは夜中の2時半でした。 そういう状況の中で僕は回復する間が取れなくて、体がどんどん悪くなってしまいました。
実は僕は前立腺肥大症というものにかかえています。前立腺というのは膀胱の下にあるのですが、それが肥大すると尿が出にくくなってしまいます。 そういう症状を持っているので、いつも漢方薬を使ったりして旅の間、ずっと気をつけています。 この時は尿は出ていたので、自分で前立腺がどんどん悪くなっていってることが分かりませんでした。でもだんだん排出が悪くなっていって、腎臓が悲鳴をあげ、それが腹痛になっていきました。 しかし僕には便秘の腹痛なんだか、他の痛みなんだかわからない状況で、イズミルからデュッセルドルフに飛び、ドイツに戻って、ヘルフォートとベルリンの街で、さらに2つ講演をこなしました。
ベルリンでは「ドイツ放射線防護協会」会長のセバスチャン・ プフルークバイルさん という方がずっと僕のケアをしてくれました。 今回僕にとって運が良かったのは、トルコでの過程を含めて、ずっとお医者さんが身近にいたことです。なぜかというと、「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」という組織があって、そのドイツ支部の方たちと一緒だったからです。 そんな中で、僕はトルコに何とも言えない強い印象を残して帰ってきてしまったのではないかと思います。僕はとにかく「腹が痛かろうが痛くなかろうが講演はやるよ」と話したのですけれども、そしたらトルコ人の医師がこう言うのです。 「それは分かっている。お前は日本のサムライだ。お前は確かにやり遂げるだろう。だけど自分は医師だ。目の前で痛がってるものがいたらそれを見てほっとくわけにはいかない。それが自分の人生なのだ。だからこの薬を飲め」と。
最終的には3月18日にベルリンの病院に連れて行っていただきました。最初、セバスチャンのお連れ合いのクリスティーナさんの勤務している病院を手配してもらい、そこから泌尿器科の専門外来がある病院に移りました。 そこもね、なんとも印象深いのですよ。その病院はベルリン大空襲の中で唯一焼け残った教会を改装した病院なのです。なおかつ、その教会は戦中にずっとユダヤ人をかくまっていたのだそうです。
その由緒ある病院で、カテーテルという管を直接膀胱に通し、尿を強制排出してもらいました。それでなんとか腎臓を復活させたのです。 そういう状況でしかも最後の5日間は吐き気でものが食べられなくなってしまって、日本に帰ってくるのが大変でした。
プフルークバイル博士に数日間、全面的にお世話になってしまって、帰国の際にも、ベルリン空港まで博士が僕の荷物を持ってくれて、車で連れて行ってくれました。 それでどうにか飛行機に乗ってベルリンからハブ空港のフランクフルトに行き、そこから関空を経て帰って来たのですけども、一番、辛かったのはフランクフルト空港でしたね。 あの空港は大きいのですよ。関空の3倍くらいあるのではないですかね。その中をごく一部しかシャトルが走っていなくて、あとは歩くのです。 僕は5日間何も食べていなかったので歩けなくて、関空行の便に移動するまで3時間ぐらいかかってしまいました。
僕は自分がこの旅の最後の方で、多分、もたなくなるだろうと思って、最後の一週間だけ連れ合いに来てもらっていました。 ベルリン観光もしないで、ホテルで献身的に看病してくれたのですが、間の悪いことに彼女も途中で転んでしまって、帰ってきてから分かったのですが、足を剥離骨折していました。 その彼女に僕は荷物を全部持ってもらい、その横を10m歩いて座り、また歩くという感じで、フランクフルト空港の長い長いターミナルビルの中を移動したのです。
そんなわけで、日本に帰ってきてからすぐにメールが出せなかったのですが、それで僕の重病説が流れてしまいました。
そんな重病というほどではないのですが、これだけいろいろ話してしまっているので明らかにすると、前立腺肥大症ともうこのまま共存していくのは無理だと判断して、肥大部分を切除する手術を受けることにしました。 その手術に一週間から10日くらいかかることになりますが、それを4月末ぐらいに受けるつもりです。 そうして身体を鍛え直して、もう一度こういうふうなタフな展開にチャレンジし、その中でも元気に旅ができるようにしなくてはととつくづく感じました。それが僕の身体のことに関する顛末です。
たくさんの方にご心配とご迷惑をかけてしまいました。また大変、お世話にもなりました。ここで心からお詫び申し上げるとともに、感謝を捧げたいと思います。
【旅を通して感じたこと―Power to the People!―】
ただ旅全体通して言えることは何かというと、それはもう、本当にものすごくたくさんのヨーロッパやトルコの方と知り合って、交わって、それで僕が何を感じたことを、一言であらわせば、「世界はどこもそんなに変わらない」ということでした。
出会った人たちはここにいるみなさんと同じような気持ちで、放射能の危険性をなんとかしなくてはいけないと思っているし、同時に、やっぱり平和を愛していて、人が争うことをなんとかして超えていきたいと、そういうふうにシンプルに発想しています。 なおかつそのためには民衆がもっと力を持って、頑張っていくことが大事なんだということを、ピュアに思っている方たちがどこに行っても多かったのですよ。
僕は今年の初めからずっと、Power to the People !という言葉を使っているのですけれど、講演でPower to the People! と言うと、どこでも爆発的に受けるのです。 だから、この言葉はもう世界の民衆のひとつの合言葉なのではないかと思うのですね。民衆こそが、力を持つことによって、この混沌とした世界を超えていくことが問われている。そう思ってる人がたくさんいるということだと思うのです。
まだ自分の中で未整理なのですけども、今日はそのことを後半でもう少し詳しく話したいと思います。ベラルーシに行って、いろいろと印象的なことが多かったので、その話をしたいと思います。
続く