明日に向けて(1616)課題は近代主義の主客二元論を越えるところにある!(社会変革と哲学-3)

守田です(20181107 23:30)

哲学の考察の3回目に入りたいと思います。
前回までにこの考察の導きの糸を廣松哲学におくことを論じてきましたが、廣松さんは近代思想を「主客二元論」とくくっています。
今回はそれがどういうことか、どういう問題があるのかということをおさえていきたいと思います。
その前に廣松さんをご紹介しておきます。写真は河合塾HPの中の河合文化教育研究所のページから拝借しています。

● 近世主客二元論の構図

近代の哲学を振り返るとき、すぐに思い浮かぶのはデカルトやカントなどです。
カントなどは難解な本を何冊も書いていて、とても理解不能と思われる方が多いと思うのですが、実はまったくそうではなくて往々にしてその考え方は私たちがものを考える際の基礎になっていたりします。
それはこれらの哲学者がその「時代精神」ともよべるべきもの、その時代に発達してきた思考を最もよく論理化していたからであり、実はそれはその後に社会に浸透し、常識化していたりするのです。

ではその基軸になるものは何かというと実はいたってシンプルです。
ものを認識するということは、「自分の外に立つ対象があってこれを主体の側が認識する」と捉えられているということです。
さあ、どうでしょうか?「当たり前」と思われませんでしたか?しかし実はこれ、けして「当たり前」ではなく、近代社会の特徴的な認識観なのです。

このものの見方は二つに分かれます。ひとつが「模写説」で、対象の側から光線が発せられ、目に入り、網膜に焼きついたものを「意識」が「見る」という考え方です。対照的事物の模写が認識だという考え方です。
これとは反対にこういうベクトルをひっくり返し、もともと人間はものを認識するパターン=「カテゴリー」を持っており、これにあてはめて事物を「見る」のだという「構成説」という立場があります。
前者はニュートン力学の世界観の支えるもので、近代科学はこの上に成り立っていると言えます。これに対して後者を代表するのはカントであり、その問題意識を受け継いで考察を深めたのがフッサールなどの現象学派です。

● 人間認識はレアール・イデアール構造としてある

廣松さんはこれらを「近世主客二元論」とくくり、その特徴を明らかにしたのですが、では近代主義=主客二元論にはどのような誤りがあるのでしょうか。
最も大きな問題は人間認識の構造を誤って捉えていることにあります。認識主体と認識客体を分けてしまい、両者が独立に存在するものとした上で、客体の反映として意識が形成される、ないしは主体から対象への認識を構成していると捉えている。
しかし人間の実際の認識とは本来、対象との関わりの捉え返しとしてあるのです。このためそのものにいかに人間が関わっているのかに大きく規定されています。

どういうことかと言うと例えば私たちはお風呂に入って何気なく石鹸を使います。現実の石鹸は丸みを帯びていたり、しかくかったり、ちびていたり、どれもがそれぞれに違ったあり方をしていて同じものはこの世に二つとないものです。
でも私たちはそれを等しく「石鹸」と認識する。リアルな実物をそれ以上のあるもの=「石鹸」という意味としてとらえるのです。廣松さんはこれを「レアールなものをイデアールなもの」として捉えると説明します。現実的なものを理念的なものとして捉えるということです。
この際重要なのは「石鹸」という意味が社会的に共有されているものであるということです。それが石鹸であるのはそれを石鹸として使う文化圏の中にいてそれを使っている人々でしかないのです。その人々の共有している意識を共同主観と言います。

つまり人間認識にはそのものをどのようなものとして扱っているのか、社会的に繰り返されてきた実践を媒介に、その都度、社会的意味として受け取る構造があるのです。
その点で人間は常に対象との関わりを認識している。社会的に共有された意味を、その都度、特定の場所に存在しているあるものに付与する形で認識しています。
だから一つ一つはこの世に二つとないものなのに、等しく「石鹸」と認識できる。このように対象物を意味として捉えることを廣松さんは「所与を所識として認識する」と言い表しました。

● 己を問うことのできない客観主義を越えるために

さてこうして人間認識の構造を捉え返すことの意義は何なのか。私たちの生活実践にいきなり落とし込んでみましょう。
その際、大事のは私たちにとっての対象的世界、もっと簡単に、私たちの目の前にある世界が、実は私たちが現に関わっている社会であるということです。つまり対象である世界には私たちの関わりそのものが含まれている。
ところが近代主客二元論では対象=客体と主体が分断されており、客体は主体から独立したものと受け取られているため、しばしばこのことが見据えられないのです。

ここでも卑近な例を出しましょう。しばしばインテリの人が「日本の民衆は意識が低い」と嘆いたりします。しかし往々にしてあるのは、そう慨嘆するだけで、「意識が低い現実にいかに己が関わっているのか」という問いが起ちあがることがないことです。
「意識が低い」現実を己の外においてしまうのです。日本の民衆と己を分断しているのです。しかしこのとき「私たち民衆は意識が低い」と己を対象に含めたら見えてくる世界はまったく違ってきます。
そこからは、私たちの現実をもたらしているものとは何なのか。その現実をいかに克服していけばいいのか。まさに自分事として「われわれの課題」が見えてくるはずです。

しかし現実には対象に己を含めずに、対象と己を分断した捉え方が横行してしまっています。それで他者のことを強く批判するけれども、自分を振り返ることをしないあり方が多いのではないでしょうか。
実は近代主客二元論からはそうした己を問わない対象分析のあり方がいわば必然化もするのです。なぜってもともと客体は己と離れたところにあるものと認知されているからです。
そういう近代社会が生み出す己を問わない客観主義を越えて、対象を見つめるときに己を問うことができるものの見方-それをここでは「主体的なものの見方」と呼びたいと思いますが-をわがものとすることが哲学を論ずる上での大きな課題だと思います。

続く

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