2013.05.17

明日に向けて(678)「慰安婦と兵隊」に寄せて

守田です。(20130517 22:00)

東京新聞のコラム「筆洗」に胸をうつ文章が掲載されました。陸軍衛生兵として、旧満州の慰安所に薬を配って歩いた河上政治さんの「慰安婦と兵隊」という詩に関するのです。まずは全文をご紹介します。

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筆洗
東京新聞 2013年5月16日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013051602000135.html

<黒竜江に近い駐屯地に/遅い春が来たころ/毛虱(けじらみ)駆除の指導で慰安所に出向いた><オンドルにアンペラを敷いた部屋は/独房のように飾り気が無く/洗浄の洗面器とバニシングクリームが/辛(つら)い営みを語っていた>
▼陸軍の衛生兵として、旧満州の慰安所で薬を配って歩いた経験を基にした河上政治さん(92)の「慰安婦と兵隊」という詩である。十数年前に読み強く心に残った。続きを紹介したい
▼<いのちを産む聖なるからだに/ひとときの安らぎを求めた天皇の兵隊は/それから間もなく貨物船に詰め込まれ/家畜のように運ばれ/フィリッピンで飢えて死んだ>
▼<水銀軟膏(なんこう)を手渡して去るぼくの背に/娘の唄(うた)う歌が追いかけてきた>。女性の出身地は分からない。薬を届けて帰ろうとした河上さんの耳に、彼女が口ずさんでいる歌が飛び込んできたのだろう
▼<わたしのこころは べんじょのぞうり/きたないあしで ふんでゆく/おまえもおなじ おりぐらし/いきてかえれる あてもなく/どんなきもちで かようのか/おまえのこころは いたくはないか>
▼性の営みという最も私的な領域まで管理、利用されるのが戦争だ。「慰安婦制度は必要だった」と明快に言い切る政治家には、兵士を派遣する立場の視点しかない。自らが一兵士として列に並び、妻や娘が慰安婦になる姿など想像できないのだろう。

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この詩とコラムを読んで、僕の頭の中に、これまで会ったたくさんのおばあさんたちの顔が浮かんできました。薬を渡して去る河上さんの背中を追いかけた「娘の唄」は、あるいはあのおばあさんの唄だったのかもしれません。
このような証言がたくさんあり、何より被害者当人が、非常に大きな社会的制約をはねのけて繰り返し証言を行っているのに、「強制連行の証拠がない」などとうそぶく神経は、いったいぜんたい、人間の血が通ったものだと言えるでしょうか。

多くの女性たち、しかも処女だった幼い少女たちは、騙されたり、さらわれたりして慰安所に送り込まれました。何より当人のたくさんの証言があるのです。性暴力犯罪において、被害者当人の証言はもっとも有力な証拠です。
しかもそれを裏付けるこのような軍人の側の証言もたくさんあります。それでもなお「強制はなかった」と言い続け、しかも「何も日本だけがやったことではない!」と居直るあり方を本当にここで正したいです。

同時に、この詩の中にはとても大切な一節があります。
<いのちを産む聖なるからだに/ひとときの安らぎを求めた天皇の兵隊は/それから間もなく貨物船に詰め込まれ/家畜のように運ばれ/フィリッピンで飢えて死んだ>
というところです。みなさん、この意味がわかるでしょうか。ぜひ知っていただきたいです。

日米戦争の末期、1944年秋に日本軍はフィリピンで米軍との最後の決戦を行いました。日本軍が当時、アメリカが植民地にしていたフィリピンを占領していました。これに対してマッカーサーの指揮のもと、「奪還」作戦が行われました。
これに対して日本軍は、陸軍の兵力の多くをフィリピンに集結。旧満州にいた兵士たちの多くを、急遽、この地に送り込んだのです。海軍も生き残っていた軍艦の多くをフィリピンへと集結させました。

かくして行われたのが、レイテ島をめぐる決戦でした。レイテ沖でも激しい戦いが繰り広げられていきました。1944年秋のことです。
それで決戦はどうなったのかというと、基本的にはアメリカの圧勝でした。なぜか。そもそも日本軍の作戦指揮がめちゃくちゃだったからです。

というのは日米両軍は、レイテ島決戦も直前に「台湾沖航空戦」と呼ばれる戦いを行っていました。日米両軍の航空勢力が洋上で激突した戦いです。このときも撃墜された日本軍の飛行機が312機だったことに対して、アメリカ軍は89機であり、アメリカの方がはるかに優勢でした。
しかし海上を偵察した日本軍機が、戦果をかなり誤って把握し、大本営に伝えてしまいます。なんと「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」というものです。実際には、大破、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、小破、正規空母1隻という軽微なものでしかなかったにもかかわらずです。

この報告を大本営はまるまる信じてしまい、レイテ決戦の作戦を考案していきます。まずアメリカの太平洋艦隊における航空戦力が壊滅したと考えたために、レイテ島などでの陣地構築に、空襲への備えをしませんでした。
しかも刻々とアメリカ艦隊がフィリピンへと迫っていることに対しても、「アメリカは航空戦力を失って絶望し、やけのやんぱちで玉砕戦に打って出ている」などと分析していました。当時の日本軍はあまりに現実を冷徹に把握する精神にかけていたのです。やけのやんぱちで玉砕を行うなうなど日本軍だけだということも理解していませんでした。

この決戦に向けて、日本はここでアメリカに優位に立つのだとばかりに兵力の大増強を行い、中国大陸で展開していた部隊の多くを、急遽、南方へと送り込むことになったのですが、その際の移動もむちゃくちゃでした。
というのは旧満州は冬は極寒の地域であり、兵士たちは寒さに耐える軍装をしていました。ところが新たに軍装を整える余裕などなかった日本軍は、兵士たちをそのまま常夏のフィリピンへと送り込んだのです。

しかも現実には航空機や潜水艦などによって、フィリピン周辺の制海権も制空権もアメリカに握られているのに、日本軍は次々とその海域に兵員輸送船を送り込んでしまいました。そのため多くの船がフィリピンにつく前に撃沈され、海の藻屑となってしまいました。
そればかりか、兵員輸送船の後ろに続く武器・弾薬・食料を乗せた船が撃沈されてしまったため、ある師団などはおよそ1万人の兵士たちがそれぞれ持っている三八歩兵銃と弾丸だけでフィリピンの島に上陸。いきなり食料もない状態で投げ出されてしまったため、部隊はすぐさま強盗集団と化し、現地の人々を襲って食料を強奪しました。

・・・僕はフィリピンから性奴隷被害を受けたおばあさんを京都に呼んだときに、この地域の戦闘に加わった旧日本軍兵士のおじいさんにも聞き取りを行ったことがあります。レイテ島に派遣されましたが、決戦を前に近くのマスバテ島に大隊を離れて派遣されたために生き残った方です。
おじいさんは戦後、十数回もフィリピンを訪れ、戦友たちの部隊が「玉砕」した地域にいって遺骨収集をされました。そのとき地元の人たちが拾い集めていた日本軍の遺品の多くを、タバコなどと交換して持ち帰っていました。

それらを見せられたとき、僕は絶句するものがありました。中でも忘れられないのは、綿入りの防寒帽がフィリピンのジャングルから持ちかえられていたことでした。「これを被っていた兵士は、どんな思いでフィリピンのジャングルに立ったのだろう」・・・。そう思うと胸が痛くなりました。
まさに兵士たちは、この地域に「貨物船に詰め込まれ、家畜のように運ばれ」たのでした。この帽子はその苦しみを、僕に訴えかけているように思えました。

おじいさんからは、ジャングルの中での飢えの話もたくさん聞きました。死んだ兵士の肉を食べた話も。そのときおじいさんはこう言いました。「死んで3日経ったらな、食ったらあかんねん。腐るからな。それを知らんと腐った肉を食って、ようけい死んだやつがおったわ」・・・。
そうです。まさに日本軍兵士たちは、ジャングルの中で飢えて死んだのです。しかも仲間の死体からもぎ取った肉を食べ、その肉にあたったりしながら。熱いジャングルの中、綿入りの服を来て、苦しんで、苦しんで、挙句の果てに誰知ることもなく死んでいったのです。

フィリピンに派遣された全軍が悲惨でしたが、戦闘が始まるや否や、またたく間に壊滅したのは、レイテ島の上陸地点に布陣した京都第16師団でした。南京虐殺などにも加わり、大陸で散々、暴れまわってからフィリピンに送られた部隊です。
先にも述べたように、アメリカ軍に航空戦力がないととんでもない誤解をしていた部隊は、米軍の上陸地点の海岸にたくさんの「蛸壺」を掘り、その中に入って布陣していました。そこに集中的な空襲と艦砲射撃が行われました。ほとんど「戦闘」ではなく一方的な屠殺でした。

部隊は瞬時に壊滅し、遺された兵士たちが、海岸のすぐ裏手のジャングルに逃げ込んで行きましたが、そこはまさに生き地獄だったと言います。何せ食料など何もない。しかも負傷した上に空から追撃が加えられる。兵士たちはバタバタと倒れていきました。
その戦友の肉をもぎ取りながら逃げた兵士たちもその先でバタバタと倒れていきました。かくして他の地域から援軍にきた部隊によって、この山中は「白骨街道」と呼ばれることになりました。

僕はここに投入された兵士たちが気の毒でなりません。人間としてあまりにも悲しい死に方をしたのがこの方たちでした。僕は第16師団を構成した京都府や滋賀県が発している戦史をたくさん読み、できるだけ多くの兵士たちの名前に接しようとしました。
「兵士たち」ではなく、滋賀県どこそこ村の、誰それさんと認識することが、せめてもの弔いではないかと思ったからです。

しかし同時に、見つめておかねばならないのは、こうした兵士たちの多くが、旧満州で慰安所に通っていたことです。これまでも述べてきましたが、慰安所に通い、女性を虐待することで、彼らは自分たちが虐待されること、まったくむなしい死を強制されることに麻痺し、受け入れてしまった。それが多くの日本軍兵士の実情だったのです。
しかもフィリピンに行ってからの部隊はもっと酷いことをしました。フィリピンの村々を襲い、若い女性たちを強奪し、強姦を繰り返したのです。

僕たちがフィリピンからお呼びしたロラたち(フィリピンの言葉でおばあさん)も、そうして日本軍に捕まった方たちでした。彼女たちは目の前で親や兄弟を殺され、軍に連れ去られました。ロープで縛られ、数珠つなぎにされて、戦地を移動する部隊に連れまわされたのでした。
したがって、性奴隷となった女性たちは、日本軍が展開しているどんな最前線にもいました。そうして彼女たちの多くもまたアメリカ軍の猛攻撃によって、兵士たちと共に屠殺されてしまいました。

繰り返しますが、旧日本軍は、構造的な虐待組織でした。兵士たちは常にいたぶられ、弄ばれました。性的ないじめもたくさん行われました。しかし日本軍には「上官の命令は、天皇陛下の命令である」という鉄の掟を持っていたため、なおさら兵士たちは、抗うことができませんでした。
上官に抗弁することは天皇に逆らうことだとされ、殴り倒されたからです。いやそもそも上官の機嫌が悪いだけで、兵士たちは理由もなく殴られました。毎日、殴られて、殴られて、食料も満足に与えられず、戦闘指揮はむちゃくちゃ。そのような状態の中で、女性を心に澱のようにたまったストレスの、唯一のはけ口として与えられたのです。
こうした日本軍に特有の構造を、「軍隊と売春はつきもの」などと語ることは絶対に許されません。日本軍の作り出した「慰安婦制度」は、まさに日本軍の構造的虐待体質の中でこそ、もっとも野蛮で、非人間的なものとして成立したのです。

そのために、まさにそのために、戦後、生き残った兵士たちから、国を告発する運動が起きませんでした。あれほど酷い虐待にあったというのに、兵士たちのほとんどは沈黙してしまいました。
米軍に囚われたキャンプなどで、上官をリンチするなどのことはたくさんあったようですが、そうして私的に鬱憤をはらすだけで、公的に、日本軍による兵士への残虐な仕打ちを正す運動は起きなかったのです。それは兵士たちが、自ら侵略の尖兵となり、酷い虐殺に手を染めたことや、構造的なレイプに関わったことを、ほとんど捉え返すことができなかったからでした。

常々、僕は思うのですが、靖国神社を持ち上げ、「英霊が」などと口にする人々のどれだけが、本当に兵たちのことを考えているというのでしょうか。まったく考えてなどいないと思うのです。考えていたのなら、なぜ彼らへのこのひどい仕打ちを明らかにしようとしてこなかったのか。
兵士たちのあまりにかわいそうなあり方、むなしい死の現実を解き明かすものなど、靖国を顕揚する人々には皆無です。それよりよほど平和運動をしてきた人々の方が、兵士たちのことを考え、同情し、同時に彼らの罪を背負おうとしてきたと思うのです。「英霊」なんて嘘をつくな!彼らの死を弄んでいるだけではないかと僕は強く思います。

こうした姿の一旦に触れてみようと思われる方は、自ら南方に赴いて死地を脱してきた漫画家、水木しげるさんの『総員玉砕せよ』を読んでみてください。9割が事実と書かれたこの漫画から、当時の兵たちの姿が見えてきます。なおこの漫画の冒頭は慰安所のシーンで始まっています。
水木さんは、あとがきでこう記しています。「軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は”猫”位にしか考えられていないのです」「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というものは”人間”ではなく馬以下の生物と思われていてた」・・・。

そんな兵士たちに軍が「休ませてあげよう」などという配慮をしたでしょうか。兵士たちを休ませるのなら、まず何よりも虐待をやめればよかった。「猫」や「馬以下」として扱わず、人間として扱うべきでした。それだけでどれほど心がトゲトゲせずにすんだことでしょう。
水木さんはこうも書いています。「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」・・・。

ここまで書けば橋下維新の会共同代表が語った、「銃弾が雨・嵐のごとく飛びかう中で命かけてそこを走っていくときに、休息をさせてあげようと思うと慰安婦制度が必要なのは誰だってわかるわけです」という性暴力発言の非人道性もより明らかになってくると思います。
この発言は、第一に女性を男性の性のはけ口に使用すること、女性を蹂躙することを肯定するまったく許しがたいものです。第二に男性が命がけになると女性への性暴力を必要とすると考える男性の尊厳への冒涜です。そして第三に、当時の日本軍のことを何も知らず、調べたこともないくせに、「日本人は歴史を学ぶべきだ」などと語っている点でもあやまりであり、兵士たちの死を冒涜するものでしかないのです。

橋下氏は戦争の現実、兵士たちの現実を何も考えていない。その死を悼む気持ちもない。国を守るつもりで侵略戦争の尖兵にされてしまった悲しみへの追慕もない。ようするに兵士たちのことなど何も考えていやしないのです。
さらにそもそもアメリカの暴力性を批判する気があるのなら、どうしてまごうことなき戦争犯罪である原爆投下、都市空襲、沖縄地上戦をこそ批判してこなかったのでしょうか。南京虐殺や「慰安婦制度」と並ぶ最も許しがたい戦争犯罪には一切触れず、「自分たちと同じ悪さをお前もしたじゃないか」と叱られた子どもの居直りのような発言をする橋下氏には、アメリカ批判を貫く確信もないのです。

こういう橋下氏のような人たちが語る「国のため」だとか「国防」だとかは、戦前の軍部が語るそれと同じものでしかありません。ようするに自分たちの利益のためだけであって、「同朋」への愛情などまったくないのです。都合が悪ければすぐに投げ出すようなものでしかない。
その証拠が「鬼畜米英壊滅」と叫んでいたこの国の指導者の過半が、戦後にすぐさまアメリカべったりの立場に転換したことです。「米英からの亜細亜解放」などと叫びながら、戦後、朝鮮戦争やベトナム戦争など、アメリカのアジア侵略戦争に積極的に加担してきたのがこの国の支配的な人々でした。中曽根元首相などもその典型です。

彼らの大好きなはずの「祖国」に原爆が投下されたことを一切問わず、核兵器開発の申し子である原子力発電を受け入れてきた現実に象徴されるこの国の構造的暴力の歴史をこそ正さねばなりません。
「慰安所」を訪れた一軍医の書いた詩、「慰安所と兵隊」の中にこもる悲しさは、そうしたことを私たちに問うていると僕には思えるのです。

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