2013.04.14

明日に向けて(657)追悼 同志・安藤栄里子!

守田です。(20130414 11:00)

昨年(2012年)の今日、4月14日、大の親友であり、脱原発の道、平和の道を共に歩み続けてきたかけがえのない同志、安藤栄里子さんが亡くなりました。43歳の誕生日を迎える2ヶ月弱前のことでした。
一年目を迎える今日、追悼の意をみなさんの前に表したいと思います。

彼女は多発性骨髄腫という難病を患っていました。まだ完全に治癒した報告例がない病です。彼女が発症したのは2003年11月。病名を告げられると同時に、余命2年の宣告を受けましたが、それから8年と5ヶ月も生き抜きました。
その間に彼女は大きく飛躍しました。もともと彼女は京都新聞の記者であり、中南米に取材に行った際に、グアテマラの解放運動に深く胸を打たれ、日本からの連帯運動への関わりを始めていました。その後、出版社勤務を中断して、現地に鍼灸治療のために赴いた知人に強く感化され、自らも新聞社を退社。鍼灸師の道を歩みだしたのでした。
しかし資格をとって開業した直後に発病。鍼灸の道を続けられなくなりました。多発性骨髄腫は、当時から完全治癒例のない病であり、治療も困難かつ過酷であったためでした。彼女はその中で「日本ラテンアメリカ協力ネットワーク(レコム)」を軸に、ラテンアメリカ連帯運動を継続し、他のさまざまな問題への関わりも強めていきます。

同時に、レコムの友人たちとのつながりを軸に、新聞記者時代から知り合った友人たちに、メールを通じてさまざまな問題を提起。やがておよそ60人のメンバーによる一斉同報メールによるメールラリーの場を作り出しました。
このメールラリーのタイトルは「栄里子いまここ」。いまここを生きるという意味が込められており、ジャーナリスト、新聞記者、編集者、科学者、医療関係者、文学者、詩人、大学研究者、市民活動家などなど、多彩な人々が集まり、積極的なメールのやりとりが行われてきました。

そんな中で2011年3月11日、あの大震災が日本を襲い、福島原発が大変な危機に陥りました。僕を含め、もともと原発に批判的だった人々がメールラリーに参加していたことから、この場がただちに福島原発事故のウオッチングの場に転化しました。避難情報の提供・拡散の場にもなりました。
僕が今も連日執筆している「明日に向けて」も、もともとこのメールラリーへの投稿から始められたものでした。(それで書き出しに「守田です」の一言が入ります)。僕は当時、ネット社会があまり好きではなく、ブログなども持ってはいませんでした。そこでまずはジャーナリストや新聞記者、編集者などの友人が多いこの「いまここ」の、顔の見える友人たちに情報発信することから、原発情報の拡散を始めたのです。

「いまここ」の場を作り出してくれた安藤さんと僕自身との出会いは2006年6月に、レコムがグアテマラから女性活動家を招き、彼女が司会をした集会の場でのことでした。グアテマラの女性たちは政府軍によって家族を惨殺されるとともに、過酷な性暴力を受けてきましたが、その痛みを克服すべく立ち上がっていました。僕は長く、旧日本軍性奴隷問題(いわゆる軍隊慰安婦問題)に関わってきたことから、この集会に興味を持ったのでした。
集会後の交流会で、さわやかに本集会の司会を行っていた彼女に自己紹介すると、いきなり多発性骨髄腫で余命2年の宣告を受け、いま、それを越えて3年目を生きているという話が飛び出してきました。しかも病状が良くないのでこれから入院しますとも。深刻な話を笑いながら話す彼女の目が印象的でした。
彼女はこんなふうに言いました。「ドクターから余命2年と告げられたときに、ドクターの持つペン先の震えをみながら、グアテマラの人々の顔が次々と思い浮かんだ。あんなに“軽々と”殺されてしまった人々の命も、こんなにいとおしい私のこの命と同じ重みなのだと感じられて、グアテマラの人々とより深くつながれたような気がした・・・。」
感動しました。本当に。僕はそれでこのとき、ありったけの思いを込めて彼女に手紙を書きました。僕は困難とまっすぐに向かい合って生きている彼女は美しいと書きました。とてもとても美しいと。そして何らかの形で闘病のお手伝いをしたいと。それで僕は集会の時に撮った彼女の写真と、その年の春に拾い集めておいた桜の葉を、命萌える生気の象徴として彼女に送りました。

その後、彼女は入退院を繰り返しながら、どんどん人の輪を広げていき、2009年初春から上述のメールラリーを始めました。手紙のことから僕のことも覚えていてくれて、いつしか僕も一斉送信の同胞欄に加わっていました。そこに投稿されている内容は非常に濃密で、参加した誰もが当初は困惑したようにも思うのですが、僕もしばらくして心を決めて夏頃から投稿を開始。当時、力を注いでいた森林保護活動に関する記事などを書き始めました。
いつしか投稿回数が増え始め、記事の連載を開始。参加者の中でももっとも濃密な記事の書き手になっていきました。栄里子さんは、これらの投稿への最良の読み手で、彼女の反応がさらにみんなの投稿を引き出していきました。
さらに安藤さんは、僕が参加する「証言集会京都」が主催する、性奴隷問題被害者のおばあさんを京都に招いた証言集会にも参加して発言をしてくれ、僕らもまたレコムと一緒になってグアテマラの女性たちを招請する集会を担うようになりました。暴力を厭い、平和を愛する心で、僕らは強く結ばれていきました。

そうして訪れた2011年3月の福島原発事故。「栄里子いまここ」の場を足がかりに放射線防護活動にすべてを投げ打って走り出した僕にとって、彼女とのやりとりが当初の活動の本当に大きな軸になりました。
あの忘れもしない事故からの2週間余り。僕はとにかく人々に、放射線から身を守り、原発からできるだけ遠くに避難することを訴えていました。僕には事故以前から、「大事故が発生したとき、政府は情報を隠して人々を逃がしてくれないだろう」という強い確信があったため、もしその時がきたら、真っ先に自分が逃げることも含め、とにかく危機を訴え、少しでも多くの人を逃がさねばならないと心に決していました。
しかし事態は想像もしなかったような大津波との複合災害であり、逃げるどころか、被災地には多くの救助隊が向かっていました。しかし原発の現状はどう見ても僕にはメルトダウンに向かっているように見え、大爆発などの大惨事もありうるとしか見えませんでした。そのため、では津波被害の救助はどうするのかという点で、逡巡し、葛藤しながらも、とにかく危機を危機として伝えることに尽力しました。
そのため可能な限り、顔の見える関係から、転送に次ぐ転送で情報が伝わっていくことを目指しました。情報の信頼性を増すためにも、自分の名前も立場も明らかにして情報を出しました。

ところが当初、いや正確には今もですが、この国を災害心理学で言う「正常性バイアス」が覆っていました。事態の深刻さを認めず、状況は安定していくのだという心理的バイアスをかけて心の平静さを保とうとする、災害時にありがちな心理的なロックのことですが、このため、原発の現状が危険だというものに対して、さまざまな形でのバッシングが繰り返されました。
原発が大変な危機に陥っていることを伝える僕のメールに対しても、「そんなに怖いことを言ってくれるな」「もっと希望を語って欲しい」「もうこういうものは読みたくない」という反応が次々と返ってきました。自分の発信内容に対しては確信を持っていましたが、正直、こうした反応が返ってくることに意気消沈する面もありました。
忘れられないのはそのときの栄里子さんとの会話です。「怖いことはもう聞きたくないという反応がたくさん返ってくんねん。もう少しトーンを和らげたほうがええかなあ」と、珍しく弱気になって語った僕に対し、栄里子さんは次のようにいいました。
「あかん、あかん。ここが正念場やで。日本人はな。一度、絶望せなあかんねん。絶望して、それで新しい希望が見えてくんねん。絶対にここで引いたらあかんで」・・・。ピシリとムチを入れられたような気がしました。

正確にはそのことと、僕なりに心理的な山を超えた時が重なっていました。僕はこのとき、福島原発事故が破局的な形に発展する可能性と向き合っていました。チェルノブイリのようになりうる。いや、一つの原子炉が崩壊したら、ほかも全部ダメになるからチェルノブイリの惨事を軽々と超えてしまう。・・・しかしそう想定するのは耐え難いことでした。そうあって欲しくはない。誰かに、何かに、日本を助けて欲しい。そう思う僕の心の中にも正常性バイアスが忍び寄ってきていました。(このころ僕はまだ災害心理学を知りませんでした)
そんなとき、たまたま移動中に高木仁三郎さんの本を読んでいて、あらためて、高木さんがこうした事故の可能性を的確に予言し、指摘してくれていたことに触れる機会がありました。自宅近くの京阪電鉄のホームの上でのことでした。そのとき、僕の心の中から、「高木さん、ごめんなさい。こうやって言ってくれていたのに事故を防げなくてごめんなさい」という思いが溢れ出し、涙がどっと流れ出してきました。僕はひと目もはばからず、ホームの上で、声を上げて嗚咽しました。
大きな声を上げて、泣いて、そして涙を流れるだけ流してから、僕の中で、チェルノブイリを超える事態があろうとも受け入れようとの思いが形作られました。日本が壊滅しても、それで人類が死滅するわけではない。そうなったらそうなったで、またそこから明日を目指すのだ。できることはそれだけなのだ。だから今、覚悟を固めてこの事態に立ち向かうのだ。・・・それが僕の胸に去来したことでした。
こう決意したときと、栄里子さんに諭された時がどちらが先だったのか、記憶が定かではありません。しかしこの2つの大きなことを経て、僕は完全に腹を決め、覚悟を固め、開き直りました。そうしてこの事故への最大級の抵抗、私たちが生き延びるための決死の闘いを継続することを再び決意しました。

栄里子さんとは、事あるごとに電話で意見交換しあい、こうした思いも伝え合っていました。また当時は、原発の状態から一瞬たりとも目が離せない状態でしたが、僕が外出しなければならないときは、彼女にテレビに釘付けになってもらい、何かがあったらすぐにメールで知らせてもらう体制も作りました。
それから僕はとにかく全てを放射線防護活動に投げ込んで走りを加速させていきました。家族である連れ合いの生活上の不安も無視し、それまでの仕事を一切辞めてしまい、後先考えずに走り出しました。その後、連れ合いは、仕事を放り出した僕の代わりに、土日も仕事を入れて、ほとんど休みなしに働いて働いて、僕を支えてくれたのですが、同時に、そんな僕を全面的に支援してくれたのが栄里子さんでした。

彼女と僕は、メールラリーの中でも原発問題にとくに関心の深い数人と特別ユニットを形成。「ゴリ同盟」と名付けました。ゴリとは古い学生運動の活動家が、リゴリズム(厳粛主義)という言葉を文字って、決意の固い活動家のことを「あいつはゴリっとしている」などと言っていたことをもじったものでした。
このゴリ同盟で行ったのは原発事故の解析でした。とくに原発の現状がどうなっているのかということと、どのような放射性物質が出てきているのか、汚染の状況はどうなっているのか、中でもプルトニウムがどこへ行っているのかをおいかけ、解析するのが問題意識の中心になっていました。

実は彼女には、プルトニウムにこだわる特別な理由がありました。というのは先にも述べたように彼女は多発性骨髄腫を患っていたわけですが、この病はどちらかというと高齢者に多く、発症したとき、彼女は日本で最年少の患者でした。なぜこんな業病に罹ってしまったのか。当然にもそれが彼女の中に去来する問でした。
そんな彼女にとって非常に大きな情報が、事故の前にもたらされていました。原発作業員の長尾光明さんという方が、プルトニウム被曝で、多発性骨髄腫になったという事例でした。しかも長尾さんは、福島原発2号機、3号機内でも働いたことがあり、そのときのプルトニウム漏れ事故が、この病を引き起こした可能性が濃厚でした。長尾さんは労災を申請し、長い闘いの末に認定を勝ち取られています。原発労災で、被曝による多発性骨髄腫の発症が認められたのです。
このことと、彼女自身の発症の可能性を大きく結びつけてくれたのも、高木仁三郎さんの論考でした。プルトニウムについて論じた高木さんの考察の中に、アメリカの核軍事工場、ロッキー・フラッツの事故の話が出てきます。この工場は核弾頭を作る工場で、粉末の酸化プルトニウムを大量に扱っていましたが、あるとき火災事故が発生。恐ろしいことにプルトニウムに火がつき、大気中に飛散したプルトニウムが工場の外へと漏れ出していってしまったのです。1965年のことでした。

この事件と栄里子さんはどうつながりを持っていたのか。実は彼女は高校生の時、1985年から1年間、アイダホ州に留学したのですが、なんとその場所が、ロッキー・フラッツ工場の数百キロ風下にあたるところだったのでした。そんな彼女はゴリ同盟の考察の中で「プルトニウムはどれぐらい飛ぶのか」を大変、気にしていたのですが、実際には比重が重いと言われるプルトニウムとて、超微粒子になればどこまでも飛散していくことがわかりました。
これらからロッキー・フラッツ工場の風下に下宿した彼女が、このときにプルトニウムに被曝した可能性が十分に考えられました。彼女のホストファミリーの多くも、ガンを発症しており、そこから彼女は自分を核軍事施設によるプルトニウム被曝者として(少なくともその可能性のあるものとして)考えるようになりました。
こうしたことがあるからこそ、彼女は放射線防護を自らの命を燃やしてでも成し遂げる課題と考えたのでした。まただからこそ、「日本人は絶望せなあかんねん。絶望して、それで新しい希望が見えてくんねん」という言葉が、勢いよく飛び出してもきたのでした。絶望し、そして絶望を超えてきたこと、それはまさしく彼女の歩みそのものだったからです。

その後、彼女はさまざまに情報発信しつつ、放射線防護で走り続ける僕や、原発に変わる代替エネルギーを求め、小水力発電の普及に走り出したジャーナリストの古谷桂信さん、日本に緑の党を出現させ、緑の政治改革の流れを作り出そうと奔走している足立力也さんを「脱原発三銃士」と名指してくれて、われら三人の活動資金を支える「いまここ基金」を立ち上げてくれました。
彼女のパワフルな訴えにより、多くの方々がこの基金に応じてくださり、僕はここから数回にわたって手厚い援助を受けることができました。今、思い返せば僕は、家族のことも、周りのことも、まったく考えず、わがままに走り出してしまったので、この基金と、連れ合いの忍耐強い良い支えがなければどうにもなりませんでした。安藤栄里子同志と基金に応じてくださったみなさんによるサポートに深い感謝を捧げたいと思います。

さて、そのように一緒に放射線防護活動に走り出した彼女でしたが、2011年6月ごろから体調を崩し、再び入退院を繰り返すようになりました。僕には、ギリギリの状態で多発性骨髄腫と格闘していた彼女に、たとえ微量であろうとも京都にも降った福島からの放射能が影響したと思えてなりません。
その中でも彼女は、脱原発を最大の課題と考え、病床からできる限りの発信を続けて僕らを励まし続けてくれました。また僕が連日発信している「明日に向けて」を、自らのコメントを付した「想いのたけ」というメールで、多くの方に転送もしてくれました。たびたび、有益なコメントや、嬉しい反応も伝えてくれました。
しかし彼女はそれまでもありとあらゆる治療を重ねてきており、さらに考えられるだけの治療を追加しましたが、どれも劇的に効果をあげるにいたらず、だんだん治療の展望が苦しくなっていきました。

そんな昨年の3月のこと。彼女に請われて病院に会いに行き、久しぶりにゆっくりと話をする機会を持ちました。2011年3月から4月のことなども少し懐かしい思いで話し合いました。今から思えば生前の彼女に会った最期の時でした。
そのとき僕は、どうしても言っておきたいと思っていたことを彼女に告げました。
「あのな、もう危ないとかいう時ではなくて、こんなときに話しておきたいのだけどな。エリエリ(彼女のニックネーム)が、もし死んだら、主要には太田さん(お連れ合いです)にでいいから、余った力で、俺に取り付いてくれへん?そうしたら俺は、肩のあたりにエリエリを感じて生きるからさ。可能性は少ないかもしれないけれど、もし万が一、俺が先に行くことになったら反対にエリエリに取り付くからさ」。
「あ、なんだかそれいいな。いいよ。取り付くよ」と彼女。
だから僕の肩には今もきっと彼女がいて、僕のことを見ていると僕は思っています。今も横でこのメールを読んでニヤニヤしていることでしょう。

世界の平和のために。圧政や暴力で苦しむ人のない世を作るために。その活動の中で出会った同志安藤栄里子。出会った時にはすでに余命2年を越えて生きて、いまここを生きることの愛おしさ、大切さ、そして切実さを誰よりも知っていた安藤栄里子。ものすごい苦しい闘病を日々、生き抜き、その中で、人を愛する力をたくましく成長させ続けたわが同志。
もうあなたはいません。あなたに会いたいと切実に思います。そうもう一度会いたい。あってもっとたくさんのことを話したい。あれもこれも話しておけば良かったと、そんな思いが募ります。1年が経つのに、あなたがいないことの不思議さに今でも合点がいきません。

でも僕はあなたは我らとともにあると確信しています。そう、僕らはあなたを肩に乗せて歩んでいる。あなたに背中を押されて前に進んでいる。そうして僕はまだしばらくこの現世にいて、多くの人々と苦労を重ねて、そうしていつしかあなたのところに赴き、報告をすることになるのだろう思います。
未来は予想できない。でも「明日に向けて」ただひたすら走りぬいたよ!という報告だけは、僕は必ず持っていくつもりです。

同志安藤栄里子よ。それまでけして安らかに眠るなかれ。われらに取り付き、われらをして走らしめよ。人のため、世のために、われらを使徒とし、われらを酷使し、世に光と熱をもたらしめよ。ともに歩み、ともに闘い、そしてともに人々の幸せを見届けん。
同志よ。永遠に。我らの心に取り付きて永遠に。どこまでもともに。

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