2012.11.09

明日に向けて(578)ビニキ環礁水爆実験を問い直す(中)

守田です。(20121109 19:00)

明日に向けて(576)に掲載した、南海放送制作の番組「放射線を浴びたX年後」の文字起こしの続きを紹介します。
長いので、今回は、文字起こし内容だけとし、次回の(下)でコメントしたいと思います。
以下、番組に続きの内容をご覧ください。

***********

放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
まぐろに激しく反応するガイガーカウンター。命がけで獲って来たマグロが目の前で廃棄処分される様子を、第二幸成丸の乗組員は呆然と見ているしかありませんでした。

乗組員
「放射能がかかった魚、全部、ここへ選別しましたね、ハシケ、積んでから。どの船もこういうかっとして捨てられたから」
他の乗組員
「かためてトラック積んで、どこへ捨てたかは知らんですわ。全部放棄ですよ」
さらに他の乗組員
「こんなばかげた話があるでしょうかいね。自分で、ろくに睡眠もとらんと働いて獲ってきた魚をね、捨てるなんて、考えられんでしょう」

ナレーション
「築地にまた放射能船」(新聞記事みだしをよみあげ)、第二幸成丸の被曝は新聞でも報じられました。「方向探知機から4192カウント」「乗組員の頭から224カウントの放射能反応が認められた」(記事よみあげ)」

乗組員
「私がガイガー管の測定に案内したんですよ。それで私がやられた頭で1500(カウント)いうていわれたの」
乗組員の妻 浜町霞
「俺らも調べられたいうて。私、そんときね、カウントね、放射線をあびちょったいうこと聞いてないしね」
乗組員
「ガイガー計数器いいますか。全員、やられたもんね。針がぷっと振り切れてますわね」

ナレーション
操業の様子や船の様子を細かく記録していた崎山船長。ところが日記には人体やマグロの線量は書きとめられていませんでした。そこにはある理由があったのです。

高知県室戸市の崎山宅
崎山船長の妻 崎山順子
「私たちもしゃべりとうないんですよ。こんなことしゃべったって、なんの何にもないづくで。漁協そのものは、それを公にせられると、漁協も成り立たん、魚も売れん。そうすると何じゅっぱいもの、あれ(漁船)を抱えているから、地域もなりたたにゃ、経済、補償をもらうことよりも、今日明日の生活をどう守るかということの方が、先やなかったんですか。だからその自分でいうたら、日本の国がやっと自分でつかまり立ちができるかというような情勢でしょ。
その柱は何かというと、石炭と魚ですき。あんたら思う感覚とは全然・・・。そんな中で私たちはこういう経験をしてきてるからね。で、あんたたちが考えたら、そりゃ崎山さん、おかしいやか、なんでそういうそのなにで。そりゃ、そんなもん、その当時は。そういうことをおかしいやないかいうてきづいちゅう人もあって、これは「船員に補償がなければいけん問題や」いうことは、思うた船員さんもおったかもしれませんけんど、そんなことを口に出して、いいでもしたら船に乗れません時代やありましたけ。それだけは言うちょきます」

ナレーション
水爆実験後、日本に迫る海洋汚染。日本近海の魚も被曝していました。その年、延べ992隻の船が被曝した魚を廃棄。6回におよぶ実験で、海の汚染は強まっていきます。ところが水爆実験からわずか7ヶ月。日本政府は突然、マグロの放射線検査を中止します。その4日後、次のような文章をアメリカと交わしています。

日米交換公文(昭和30年1月4日)
ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡
アメリカ合衆国政府は、日本国政府が、前記の二百万ドルの金額を受諾するときは、~すべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解します

映像 ビキニ被災事件に関する慰謝料の配分について 昭和30年4月28日閣議決定

ナレーション
日本円で7億2千万円。政府は三分の二をマグロ関係者の損害にあて、残りは魚の廃棄に対する補償や、第五福竜丸乗組員の治療などに配分するとしています。日本政府は二百万ドルと引き換えに、事件に幕を引き、その後、すべてのマグロが食卓にあがったのです。
当時、口を閉ざすしかなかった乗組員たち。彼らはいったい、どれほどの放射線を浴びていたのでしょうか。

講演会映像「放射能から家族を守る食べ方の安全マニュアル」福島県福島市2011.12.9
「半減期の短いものは最初だけしっかり注意する。例えばヨウ素131であれば、最初の1ヶ月、2ヶ月。これはなんとしてでもね、被曝をしないようにしないといけません」日本大学専任講師 野口邦和

ナレーション
放射線防護学が専門で、現在、福島県二本松市のアドバイザーを務める野口邦和さんに、乗組員が浴びた放射線量の算出を依頼しました。

野口邦和
「これがクーンね、ロメオ、そしてセシウム137換算で・・・」

ナレーション
第二幸成丸から検出された4000カウントをもとに、乗組員が被曝した瞬間の放射線量を算出します。
映像 算出はGM-10ガイガーミューラカウンタノ線量率換算係数を利用しています

「かける4000。おお、とんでもない数字になりますね。方向探知機が、4000CPMの汚染があったと。これを3月27日のロメオ実験による汚染だとすると、時間あたり48.5ミリシーベルトになりますね。
ですから例えば10時間そこにいますとね、約485ミリシーベルト、約500ミリシーベルトですよね。500ミリシーベルトというと、白血球が減り始める、そういう線量に相当します。10時間いるだけでね。やはり相当な被曝、急性障害がおきてもおかしくない被曝があった可能性代ですよね、これね。」

ナレーション
第二幸成丸の乗組員22名。過酷な運命を背負った彼らは、40代、50代の若さで、次々と亡くなっていったのです。

映像 第二幸成丸死亡者(役職、没年齢、死亡原因)
甲板長 47 不明、機関長 53 心臓麻痺、機関員 54 肺ガン、機関員 54 心臓麻痺、機関員 59 血液のガン、船長 63 心臓発作、機関員 64 筋肉萎縮硬化症、漁労長 68 直腸ガン、甲板員 71 心臓麻痺、通信長 73 肺気腫、甲板員 不明 不明、甲板員 不明 肝硬変、機関員 不明 不明。

ナレーション
第二幸成丸の数少ない生存者の一人、有藤照雄さんは、現在、横須賀に住んでいます。偏見や差別を恐れ、長い間、口を閉ざしてきました。

有藤照雄
「(当時の手帳を見ながら)これ、終戦当時だから紙が悪いね。第二幸成丸の。その後、50年間、なんにも。私も自分だけに秘めて。こういう体験をしたということ、家族にも誰にも言わなかった、妹たちにも」

ナレーション
その後、有藤さんは自分の経験を妻に明かしました。

妻 有藤光江
「米軍だって、あれでしょう。そういう実験をして、人体実験みたいなもんだよねえ。主人が放射能を受けていたら、子どもが二人、生まれているじゃないですか。それでなんにも、子どもにね、具合が悪いとか、白血球が多いとか少ないとか、そういうことも全然でないし。だけどもこの子たち、父親のを遺伝して、こういうものをね、体のどっかにあるんじゃないかなあと思って、私は本当にこれ、死ぬまで心配だよね」

ナレーション
そもそも被曝したことを認められていない有藤さんたちは、国から医療費などの支援を受けることはできません。乗組員やその家族は、放射能の影響におびえながら生きていかなければならないのです。

2年前、南海放送が入手したアメリカ原子力委員会(現、アメリカエネルギー省)の機密文書。そこには6回の水爆実験によって生み出された放射性物質による汚染の実態が克明に記録されていました。
「5月初旬のヤンキーの実験の際、太平洋高気圧が強まり、日本には大量の放射性物質が降下した。多分、夏と初秋の実験では日本は最も放射能汚染されるであろう」

ナレーション
1954年3月1日、多くのマグロ漁船が操業するなか、アメリカ原子力委員会は、水爆ブラボーの実験を実施。放射性物質は東西に広がり、わずか一週間でアメリカ本土にまで達しています。
5月5日、5回目となる水爆ヤンキー。すると今度は日本が。徐々に日本列島をおびやかす汚染地図。そして5月17日、日本は放射性物質にすっぽりと覆いつくされたのです。
放射性物質の広がりを示す地図に第二幸成丸の航路を重ねて見ます。2月24日、第二幸成丸は日本を出港。3月1日、ブラボーが爆発。3月9日、第二幸成丸は放射能の領域に突入。3月11日、死の灰を浴びながら操業。そして3月27日、2回目となるロメオが爆発。新たな放射性物質が乗組員を襲います。操業を終えた第二幸成丸は4月1日、帰路につきます。
こうしてマグロ漁船の被曝は、当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられることになったのです。
さらに驚くべきことは実験の1年前、すでに122箇所の観測所が設置されていたことです。日本には三沢や東京など5箇所。被爆で苦しむ広島や長崎でも、アメリカは観測を行っていたのです。

野口邦和
「アメリカは世界的規模で汚染するということは、分かっていたはずですよね。というのはあのレポートを見れば、120箇所か、130箇所ぐらいに測定地点を設けて、本当に世界的な規模で、フォールアウトの影響を調べていますから。ということは世界的な規模で水爆実験をやれば、汚染は広がるということは承知していたんだと思うのですよね」

ナレーション
広島市立大学の高橋博子さんは、当時、アメリカがある想定をしていたことをつきとめました。」

広島市立大学平和研究所講師 高橋博子
「これは私が核実験当局者である原子力委員会の資料から入手してきた文書なのですけれども、なんでも影響があったかという、それを示す地図です。・・・さきほどの地図を、今度はワシントンDCを爆心地としておきかえたものがこちらの地図なのですけれども・・・」

ナレーション
原子力委員会は、水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どのような被害がでるかを検証していたのです。爆心地はワシントンDC。被害想定は、およそ200キロ離れたフィラデルフィア

高橋
「屋外にいた場合は100%が被ばくして、死亡率が50%。すべての人が何らかの病気になると、そういうことが述べられています」

ナレーション
久保山愛吉さんが亡くなった第五福竜丸が被曝した位置が、ちょうど、フィラデルフィアの位置にあたります。

水爆実験の映像
レッドウイング作戦 1956.5~7
核爆弾フラットヘッド 1956.6
核爆弾テワ 1956.7
ドミニク作戦 1962.4~11

ナレーション
アメリカは第五福竜丸事件からわずか2年後、核実験を再開。日本の漁船は汚染の続くその海でマグロ漁を続けたのです。そしてアメリカは世界最強の核兵器を手に入れたのです。

岡を登っていく映像
「ああしんど。もう登れんようになった」

ナレーション
高知県宿毛市。ここに生存者わずか2名という船がありました。

「おおようやっときた。じいさん。ようかきました」

ナレーション
11年前のこと。岡本豊子さんが自宅に帰ると、夫の清美さんが玄関先に倒れて死んでいました。

新生丸乗組員の妻 岡本豊子
「今日は一人やないでねえ。いっつも一人やけん。昨日きて、長いことお話しちょるけ」

ナレーション
6人の仲間たちとこの高地からマグロ船に乗り込んだ夫、清美さん。マグロ船、新生丸もまた、死の灰を被った船です。次々と死んでいく仲間を見送り、自らも病と闘った末になくなった清美さん。
闘病生活を支えた清美さんは、果たすことの出来なかった夫の無念を知っています。
事件から34年が過ぎた1988年。救済を求め、全国初となる被災船員の会が、高知県に発足します。

映像 高知県ビキニ被災船員の会が発足 1988年5月11日

代表世話人となった清美さん。議会に働きかけ、医師と連携し、自分たちで健康調査を実現しました。被曝の事実を国に認めさせたい。しかし夫は生前、妻の前で意外な言葉をもらしていました。

岡本豊子
「絶対にこれは成功せんね、言いよりました。」
-これは成功せんとは、どういう?-
「これは成功せんでしょう。これは国があいてやけん。自分らのあれ(力)ではできんことやもんねえ。ねえ、そうやかね。国相手にね、自分らがどう思うちょっても、なかなか。まあ元気におっただけ幸せよ。じきに亡くなった人もおるしね」

ナレーション
被災船員の会は、その後、会員の死亡が相次ぎ、解散を余儀なくされたのです。
新生丸乗組員の墓は、港を見下ろす、小高い岡に並んでいました。

「ここです。昭和58年の5月の28日か。61歳で書いちゅう。61歳。」
「(違う墓をさして)昭和58年6月の16日。52歳。この人もガンやった」

ナレーション
被曝の事実を認められないまま、亡くなっていった乗組員。新生丸に乗った男たちは19名。すでに17名が死亡しています。

映像 高知県太平洋核実験被災者支援センター 山下正寿さん(67歳) 東京で

ナレーション
調査を始めたころ、40歳の現役教師だった山下さん。ビキニ環礁での被曝事件を解明し、被災者を救済したいと、今も活動を続けています。

映像 全日本海員組合を訪問
「(海員しんぶんをさして)週1回でよったんですか」
「この当時は週1回。今は月3回です」

ナレーション
現在は被災した乗組員たちが被爆者健康手帳を公布されるように働きかけています。

山下
「広島・長崎以外にも、明らかにビキニ被災で影響を受けた人間に、原爆手帳を申請してくれと。こういうことはほとんど人に知られていないので、やっぱりぜひ、海員組合としても引き続き、取り上げてもらったらと思うのですけれども」
「そうですね」

映像 高知県教職員組合青年部での講演
「第五福竜丸ほどではないですけれども、火の玉をみた、爆発を見たという人が十数人いました」
ナレーション
事件から58年。残された時間はありません。

映像 山下の宿舎にて
-こんなにしんどい思いをして、変わりますかねえ
「それはやってみないと分からないから。そんなに急に変わる思うてはじまる思うちゃせんよ。ちょっとずつ、コツコツ、穴をあけるようにせないけん。谷川でね、カニがねえ、穴をあける。赤い子のカニが。それが堰を切るときがあるんだよ。
セメントで固めたものにね、カニが穴を開けていくんだよ。赤い子がおったらいかん言うて、赤い子がセメントを破って穴をあけるいうて。ま、そんな気持ちよ」
-じゃあ、先生は赤い子ですか
「赤い親じゃけど・・・。何か、いずれ変わる時が来るやろうと思うてやらんと、しんどうてできんわね」

ナレーション
日本中を放射性物質が覆った日からおよそ60年。またこの日本に放射性物質が降り注ぎました。

第二幸成丸船長の妻 崎山順子
「そりゃ今でもそうやか。あの、ほかの出しゆうあの、(福島原発事故の)記者会見じゃらで言うもんも、私らが知りたいことと、あの人らが言うことは違うように私は思うけんど。だから私らがなんぼそんな話(ビキニの話)をしたって、そんなの(誰も)知らんことやきに、いつの時代にも弱いものにしわ寄せがくるということは、いつの時代も一緒。うん、いつの時代も一緒や」

ナレーション
被曝したことを認めらず、原因さえ分からないまま死んでいった多くの乗組員たち。事件から58年。彼らは自らの死を通して、無言のメッセージを送り続けています。

ナレーター 鈴木省吾
朗読    保持卓一郎
シリーズ題字 柿沼康二
撮影    伊藤英朗
音声    山内登美子
ミキサー  山口誠
音効    番匠祐司
写真提供  朝日新聞社 毎日新聞社
ディレクター 伊藤英朗
プロデューサー 大西康司
製作著作  南海放送

番組は以上。記事は(下)に続きます。

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