2012.06.15

明日に向けて(487)追悼!原田正純先生(社会的共通資本と水俣)上

守田です。(20120615 08:00)

とても悲しい知らせが飛び込んできました。6月11日に、水俣病患者さんとともに歩んでこられた原田正純先生がお亡くなりになられました。14日に水俣でお別れ会が行われたとのことです。原田先生の霊前に合掌し、安らかに眠られるようにお祈りするばかりです。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307774

折りしも、カライモブックスでの、水俣を通じた福島の阿部さんとの出会いについて論じており、「このことを原田先生にもお伝えしたいな」と思ってきたときの出来事だったので、とてもショックを受けました。もう原田先生がおられないのかと思うと、淋しくてなりません。

原田さんは、熊本大学医学部のときに水俣病と出合い、以来、もっとも患者さんたちの近くに立って、活躍されてきました。その初期からの活動と水俣病の実態をまとめた本に、岩波新書『水俣病』があります。私たちが現代の日本を生きていく上での必読文献です。今、読めば、まさに今回の原発事故が、水俣病を生み出し、拡大させたこの国の病巣の上にたっていることが見えてきます。ぜひ、お読みください。

原田さんとは僕は数回、ご同席させていただいただけなのですが、深い縁に結ばれた場でのことでした。というのは僕は、2003年に、縁あって、京都精華大学のアドミッションズ・オフィーズに参加させていただきました。このオフィスが担っていたのは同大学のAO入試です。AO入試は大学によってさまざまなあり方がありますが、当時の京都精華大学は、大学と学生の、双方向のベストマッチングを作り出す場として位置づけ、「理想の入試」を目指していました。

僕が担当したのは、AO入試での大学と受験生の濃密な対話を経た後に合格となった学生に、入学前教育を施すことでした。僕が参加したときにはプログラムの概要が決まっており、すでに走りだしている段階でしたが、主要な文献として、鹿野政道著『日本の現代』(岩波ジュニア新書)が、また重要文献として、宇沢弘文著『日本の教育を考える』(岩波新書)や原田さんの『水俣病』などが指定されていました。

それを具体的にどう使い、学生(実態は高校生)に読み解いてもらい、さらに主体的な読書を行ってもらうのか、その実際を担うのが僕の仕事でしたが、ここで僕はこれらの書物を何度も読み解き、そのエッセンスをいかに合格生たちとの対話に生かしていくかを考え抜きました。

ちなみに『水俣病』が採択されたのは、当時の京都精華大学に、水俣との関わりの強い教員が多かったからです。当時の学長で、AO入試全体の取り仕切りを行っていた中尾はじめさん、また環境社会学の立場から水俣にかかわり、のちに滋賀県知事となられた嘉田由紀子さんなどがいました。

これらの文献を使いながら、僕が目指したのは、高校生たちに、学問をすることの意義と、本質的な楽しさを知ってもらうことでした。それまで強制されてきた暗記の世界と決別し、自らの自由な意見を持ち、闊達にそれを論じることを求めました。だから必ずしも、指定文献の内容に同調することは求めず、ただひたすら、自らがそれに対してどのような意見を持とうとするのか、その主体性を問いました。

そうすると学生たちは、どんどん伸び始めました。一例として、『日本の現代』を読んだある学生の感想文をここに紹介します。当時、17歳の女子学生の書いた文章です。

***

『日本の現代』を読んで

四大公害病。学んだことは何かを考えた時に、心の奥の方からこの文字がぶつぶつと浮かんできた。

小学生のときに、学校と塾で四大公害病という過去の出来事を学んだ。教科書に映る公害病で苦しむ人を感じて、多少なりとも私は胸を痛めた。ただその頃の私にとっては、四大公害問題もベトナム戦争も可哀相なことが起きた過去の出来事でしかなかった。それから何度か四大公害問題を目にしたが、私がそれ以上の感情移入をすることはなかった。

今回も、『日本の現代』を読み進めて、四大公害問題と出会った時、私はいい加減にうんざりしていた。「またか。この話は何度も勉強してきたから知っているよ」と私は非難しながら読んでいた。ところが1冊を読み終えて心に残ったことを考えてみると、四大公害病が何よりも深く残っていたのだ。

「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。(中略)手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが」「ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、ほんに情けなか。」

水俣病患者の坂上ゆきさんの悲痛な叫びが届いた。お嫁に行って3年になると、そこでの生活に慣れ、楽しみも発見し、生き生きとしていたのかもしれない。そんな時に、水俣病という恐ろしくも奇妙な病気にかかり、これから先にあったであろう未来が型を変えて坂上さんを押し潰した。無念さ、自責、失望。原因がわからず、また企業が認めずにいた日々はさらにそういった憤りが重く病気になってしまった自分にのしかかったのだと思う。

気がつくと、私は歯をくいしばりたいのにそれができない気持ちでいた。病気になってしまった自分を責めることは間違っている。けれど、今でも、矛先がわからずに自分を追いつめている人はいるのだと思う。私のように、四大公害病と聞いてうんざりする人は何人いるのだろうか。どれだけの人が彼らの叫びに耳を傾けたのだろうか。そして、もし企業側の立場にたったとしたら、自分達の責任を誠実に認めることができる人がいるのだろうか。私は問わずにはいられない。

私が学んだことの中で一番衝撃を受けたことは、四大公害病に苦しむ人の声。その声のほとんどが届いていないということ。私は聞こうとしなかった自分を反省するとともに、『日本の現代』を通して、1つの声と出会えたことを、本当に嬉しく思っている。そして、水俣病以外の様々な被害者の声もまた、たくさん私の胸につき刺さり私は多くのことを学んだ。

***

この学生は、言うまでもなく、さらに他の書籍へも進み、素晴らしくその思考を伸ばしてくれていったのですが、当時、僕はそのことを「頭が開いた」と表現していました。無味乾燥な暗記の世界を抜け出たとき、世界がフルカラービジョンで迫ってきて、それに応接して、自らの生き方を探り出していく能動性が目覚めたのです。それを僕は「学問を始める準備」と呼んでいました。

さて原田先生との直接的な邂逅はこの先に訪れます。先にも述べたようにこのプログラムでは宇沢弘文さんの『日本の教育を考える』を使用していました。ワークシートを作って、読み解きを進めながら、最終的に僕は学生たちに原稿用紙8枚におよぶ感想文の提出を求めました。日本の歪んだ公教育の在り方を告発する宇沢さんの提言との対話の中から、自分が何を、なぜ、どうして、いかにして学ぶのかを考えることを求めたのです。

これに対しては、プログラムに参加したすべての学生が作品を提出するにはいたりませんでしたが、何十編かの素晴らしい論考が集まりました。それは僕の求めたレベルをはるかに凌駕するものでした。学生たちの生き生きとした思考がそこに踊っていました。非常に感激したので、僕はそれを大学に論文集にまとめていただき、著者の宇沢先生にお送りしたのです。すると、熱いハートをお持ちの宇沢先生から、ご返事が来ました。それが僕と宇沢先生の出会いのきっかけとなりました。そうして僕はやがて宇沢先生に伴われて水俣を訪れ、原田先生ともお会いすることになったのです。

続く

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