2012.06.16

明日に向けて(488)追悼!原田正純先生(社会的共通資本と水俣)中

守田です。(20120616 10:00)

原田先生との出会い、社会的共通資本との出会いについてのお話の続きを書きます。

2004年になって、僕は京都精華大学を辞し、一時期、滋賀県の新しい県紙として立ち上がらんとした『みんなの滋賀新聞』編集局に参加しました。ある方から、日本のジャーナリズムを変えるために現場で奮闘すべきだと説得されてのことでした。そこで僕はこの新聞社に飛び込み、非常に多くのことを学びましたが、しかし新聞社は1年あまりで立ち行かなくなり、やがて倒産し、解散してしまいました。

ちょうどその頃、宇沢先生が京都に講演に来られることになり、お会いしにいきました。先生は僕のことをよく覚えていてくださり、当時、自らが主宰しておられた同志社大学社会的共通資本研究センターに、フェローとして参加するように求めてくださいました。拾っていただけたのでした。そうして宇沢先生に直接学びながら、社会的共通資本に関する研究を深める日々が始まりました。

その宇沢さんがもっとも重視されていたのが水俣でした。宇沢さんはもともと、東大を出てアメリカの大学に研究生として招かれ、やがてシカゴ大学などで教鞭をとられていたのですが、ベトナム戦争が激しくなる中でアメリカと決別し、日本に帰ってこられて、東大経済学部に加わられたのでした。

それまで宇沢さんは、日本のことを経済指標でしか見ておらず、高度経済成長を続ける日本が、日増しに豊かになっていくことを喜びの目で見ていたといいます。ところが日本に帰ってきて、宇沢さんが知ったのはこの経済成長の影に隠れて、たくさんの公害が発生していることでした。ショックを受けた宇沢さんは、これらの公害現場の一つ一つを歩き始めます。

とくに宇沢さんが強い関心を寄せたのが水俣でした。水俣を訪れた宇沢さんはそこで原田さんと出会われ、原田さんに伴われて、胎児性水俣病患者さんのお宅などを回られました。そのときのインパクト、感動、そして胸の痛みを、宇沢さんは、先に紹介した『日本の教育を考える』の中で、切々と語っています。

「私が水俣の地を訪れたのは、熊本大学の若い医学者原田正純さんに連れていっていただいたのが最初でした。原田さんは脳神経を専門とされるお医者さんですが、早くから現地で、最初の胎児性水俣病患者をはじめ、数多くの水俣病患者の診療に当たられるだけでなく、水俣病問題の社会的、経済的、政治的背景について、洞察力に富んだ研究を数多く発表されたのです。」(同書p153)

「原田さんに連れられて、水俣病患者のお宅を訪ねる度に、私はいつも感動的な場面に出会いました。それは、胎児性水俣病患者をはじめ、重篤な水俣病患者の方々が、原田さんを見ると、じつにうれしそうな表情をして、はいずりながら、原田さんに近づこうとする姿でした。そして、原田さんがやさしい言葉でいたわり、容態を聞く光景をみて、私は、医師と患者の間の理想的な信頼関係をみた思いがし、原田さんこそ、現代医学の規範でなければならないとつよく感じたものです。同時に、医学の道を志ながら、途中で挫折した後、社会の病いを癒すという気持ちに駆られて経済学を専門分野として選んだ私は、それまで研究してきた経済学のあり方に対して、つよい疑問をもち、深刻な反省を迫らざるを得ませんでした。」
(同書p153~154)

宇沢さんはその後、阿賀野川、四日市、西淀川、大分、志布志、むつ・小川原、伊達、川崎、千葉などを、公害問題の現場を歩き回られ、その中で近代経済学の理論的枠組みの論理的矛盾、倫理的欠陥を超えるものとしての社会的共通資本の考えに到達していきます。そして社会的共通資本を次のように定義されました。長くなりますが引用します。

「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力のある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置です。社会的共通資本は社会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎重に、大事に管理、運営されるものです。社会的共通資本の管理、運営は市場的基準、あるいは官僚的基準によって決められるべきものではなく、あくまでも、一人一人の市民の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由が最大限に確保できるような社会を形成するという視点にたっておこなわれるものです。

 大気、森林、河川、湖沼、海洋、水、土壌などの自然環境は言うまでもなく、社会的共通資本の重要な構成要因です。公害問題は、産業的あるいは都市的活動によって、自然環境が汚染、破壊され、その機能が阻害され、直接、間接に人間に対して被害を与えるものです。したがって、公害を防ぐためには、産業的あるいは都市的活動に対して、きびしい規制をもうけて、自然環境という社会的共通資本を傷つけることがないようにすることが要請されます。そして、ひとたび公害問題が発生したときには、自然環境を汚染、あるいは破壊した企業(場合によっては、特定の個人)の責任をきびしく追及するとともに、社会的観点にたって、公害被害者の本源的救済をおこなわなければならないわけです。」(同書p155~156)

このように読んでみると、まさにこの考えは、福島第一原発事故にそっくりそのまま適用できるものであることがお分かりだと思うのですが、こうした考え方を、宇沢さんは、原田さんに伴われて、水俣病患者さんの家を周りながら、自らのうちに確固な信念として打ち立てられたのでした。

僕自身と言えば、若いときに社会主義思想、とくにマルクス主義によって自己の世界観、正義感を形成してきました。とくに影響を受けたのは、哲学者廣松渉さんの考察でした。廣松さんの考察は、部分的にはマルクス主義を大きく越え出る要素をはらんでおり、その点については今も僕の考え方の一角を形成していますが、しかしマルクスが例えば『共産党宣言』などで提起した世界観に、僕は次第に疑問を強めるようになりました。

一番、ひっかかったのは、マルクスの提起が、「経済成長」にあまりに過大な期待を寄せているように思えたことでした。またそのために、農の営みが軽視されているように思え、環境問題などでさまざまに突き出されてきた問題に、19世紀のマルクスの考察では、十分な答えがでないように思えました。むしろ時代的制約の中を生きた一個人であるマルクスに、すべての答えを見出そうとするほうが無理であると考え出し、マルクスの考察の先にあるものを模索しはじめていました。

しかしそれは苦難の道でもありました。それまでの己の確信を解体し、再創造しなくてはならない。深い心理的葛藤を伴い、またそれまでの仲間や友人たちとの決別を含むものでもありました。そうした苦悩の繰り返しの中にいたため、宇沢さんが、水俣に赴かれる中で、それまで己の確信としつつも、さまざまな懐疑を宿しつつもあった近代経済学の解体再創造に取り組まれ始めたこと、それまでの同僚との関係をも苦悩の中で見直されはじめたことに、僕は深い尊敬の念を抱きました。またそこでの考察は、マルクス主義にも共通のものと僕には思われた経済成長の一面的美化への内省を孕むものであり、社会的共通資本の考え方は、次第に、僕自身の思想的葛藤を越えでる大きな可能性として感ぜられるようになりました。

かくして、まさに己の信念を再創造し、いかにして「豊かな社会」の実現をめざしていくのか、またそもそも「豊かな社会」をいかなるものとして捉えるのかという思想的確信を磨きあげる作業が、僕にとっての、同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローとしての研究テーマになりました。

そんな僕に対して、宇沢さんは懇切丁寧に、社会的共通資本の考え方をレクチャーしてくださいました。同時に、きわめて厳しい論文指導を繰り返し受けました。まるで柔道の高段者に素人がポンポンと投げられるような日々で、けして楽ではありませんでしたが、その中で僕は僕の思考を少しは磨きあげることができたように思っています。

宇沢さんはまた折に触れて、社会的共通資本を考えるものにとって、水俣は聖地であると語られていました。そしてある機会をとらえて、僕を熊本に連れて行ってくださり、原田さんとも会わせてくださいました。その縁で水俣をも訪れることができました。僕にとって始めての水俣でしたがこれほどに思考をめぐらせて訪れた場はそれまでにありませんでした・・・。

続く

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