2012.10.13

明日に向けて(559)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)上

守田です。(20121013 22:00)

10月7日に、被爆医師、肥田舜太郎さんが、大津市で行われた滋賀県保険医協会主催の講演会でお話されました。僕も参加して、一番前の席に座ってノートパソコンを広げ、必死でノートテークしました。

肥田さんは、いつものことですが、立ったまま、2時間にわたって熱弁。話が進むに連れて聴衆を引き込み、時間が経つことも感じさせませんでした。まるで映画を見ているように、肥田さんの前に原爆投下後の広島があらわれ、被爆者の方たちが現れ、その中で奮戦する肥田さんの姿が現れました。

すべての言葉が印象的でしが、今、振り返って僕に胸に一番残っているのは、今回の事故のことで「講演に呼ばれた専門家の中で、とう生きるかを言える人は私以外にいない。言うのは遠くにいけ、汚れたものを食うなということだけだ。ではできない人はどうするのか。それには答えない。それを言えるのは僕だけだ」と語り、放射線の害と立ち向かって生きる術を述べられたことでした。

実際に肥田さんは、繰り返しすでに被曝した人がどのように生きれば良いかを説かれます。どう放射線の害と闘うかです。その内容は本文に譲りますが、僕もこの肥田さんの言葉を自分の講演で必ず伝えるようにしています。

確かに放射線はまず防護すべき対象です。しかし、福島事故ではすでにものすごい被曝が起こってしまいました。だからその影響と立ち向かわなくてはいけない。個人的にも社会的にもです。だからこそ肥田さんは被曝医療の充実を訴えられています。

肥田さんが何千何万の被爆者とともに、一つの生き様として築きあげてきた「内部被曝と闘う知恵」を私たちはみんなでシェアし、伝え、磨き上げていくことが必要だと思います。

そのような思いから、この日の講演をノートテークしてきました。録音不許可だったため、僕の現場でのタイピング力の及ぶ範囲での再現になります。細部で間違いなどあるやもしれません。お気づきの方はご指摘ください。

講演は2時間。タイピングの量も多いので、3回にわけます。どうかお読みください。

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じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(上)
2012年10月8日  

ご紹介いただいた肥田舜太郎という内科の医者です。
広島の原爆のときに、現地にいて自分も被曝しながら、生き残って被爆者の方の医療を行った方はたくさんおられたのですが、みんな私より年が上で、全部亡くなりました。広島についていえば私がたった一人の被曝医師です。

そのために福島の事故が起こってから、日本中のマスコミの方が、広島を経験した医者でなければだめだということで私のところに来ました。100社以上がでした。その度に同じことを2時間ずつ話させられる。大変な苦痛でした。

同じぐらいの回数で、全国のお母さん方が、初めて放射線被害に不安を抱いて、どうやって生きていったら言いか知りたいということで、講演に行きました。
取材と講演は合計で300回を越えます。1週間のうちに四日ぐらい取材に応じたり講演で話したりする生活を送ってきました。年を取って、こんな目にあうとは思いませんでしたが、確かに私でなければこれは話せない。また亡くなった被爆者の方の思いを伝えるためにとも思ってお話してきました。

私が広島で勤めていたのは日本で一番大きな陸軍病院でした。当時、日本から中国へ行く部隊も、南方に行く部隊も、全部、広島の宇品の港からでました。そのため、広島の婦人たちは、毎日船が出ますから、その度に、日の丸をもって見送りに行っていました。

その後、日本中の大都会が空襲を受けました。何百機に襲われ、焼夷弾で大都市はみな焼け野原になりました。私が広島に赴任したのは原爆が落とされた1年前の8月1日でした。
それからちょうど1年たった8月6日に原爆を受けました。それまでの間は、広島もよその町と同じように、朝から遅くまでB29がきました。1機でくることもあれば3機のときもある。何10機のときもありました。そのたびに避難することを繰り返しました。

しかし不思議なことに実弾が一発も落ちなかった。通るだけなのですね。戦争が終わってアメリカにいって、はじめて、むこうの記録を見ますと、広島に原爆を落とすこと前からが決められていました。
そのために空襲に来るたびに、弾を落とさないけれど、写真を撮り、広島市民が一番、屋根の外にいる時間を調べていた。自分の落とす爆弾が、直接、一番たくさんの人に影響を及ぼす時間を調べて、それで8時15分に落としたのです。

はじめて作った原爆を広島の人を使って実験する。日本人の身体を使って原子爆弾の威力を試す。それを記録に残して、原爆を使う戦争の資料にするつもりだった。あとからそれがわかりました。

あの原爆は熱が出ますから、直下で焼け死んだ人がたくさんいます。爆風も強い。大きな巨人がいて手のひらを広げてぐしゃっと下を潰したようなもので、家が潰れました。
中にいた人は逃げる間もない。即死した人はまだ幸せですが、死ななかった人はつぶされやがて火が出て焼き殺された。これが目に見えた死に方です。

しかし放射線の被害は目に見えません。死に方も見えません。みなさんも今度の事故で放射線の話をなんども聞いたと思いますが、誰も見たことはない。お医者さんも放射線を治療に使いますが、機械を見たことはあっても何が出たかは見えません。
みなさんが裸になって「大きな粋を吸って、息をとめて」と言ったときに、カシャット音がする。そのときにみなさんの身体の中を放射線が通るのです。それで硬いところが陰になって映る。フィルムに骨が見える。身体の中のおできなども小さく写る。それで先生は体の中に起こったことを判断します。

昔は放射線がそんなに恐ろしいものだとは知らなかったから、患者さんに当たるだけでなくて、まわりにもれて、それを毎日受けている技師の方に影響が出てくる。皮膚がんになったり、白血病になったりする。それでわかってきました。
それで妊娠4ヶ月前のお母さんにはレントゲンをかけてはならないと決まりましたが、それは戦後、だいぶたってからでした。原爆が落とされた後もその恐ろしさが分からず、4ヶ月以下のお母さんにレントゲンをかけていたのです。広島でたくさんの人が死にながらそれが続いていた。

その理由は何か。僕たち医者は被爆者をみました。10日ごろに呉の海軍があの爆弾は原子爆弾だったといった。しかしなんだかわからない。しかし不思議な死に方をたくさんみました。
経験的にわかっていった。目で見てはじめて、自分にわからない人間の死に方があることがわかり、これが原爆の威力だなとみて勉強しました。それを知っている人は日本には誰もいなかった。

放射線は目に見えなさい。福島のことでも、人々がどんな被害を受けてどうなっていくのか誰もわからない。その放射線の影響が目に見えるような被害となったのは広島と長崎が最初です。
福島では本当の被害が見えるようになるのはこれからです。今から本当に恐ろしいことがおこります。

これに備えた医療体制が必要ですが、今の政府の体制では間に合わない。患者が出てきてからでは遅いのです。それなのに、みんな無責任で何も起こらない、大丈夫だと言っている。
広島長崎で60年以上、人が放射線で殺されてきたのに、そのことから何も学ばないで、アメリカの言い分を信じ込んで、今でものんびりしている。

でも現実に今回の事故で放射線を浴びた人はいるので、ただ放射線の被害は恐ろしいとだけいっても、受けた人はどうしたらいいかわからない。放射線の被害に対しては治す医療はない。薬もない。
医師は見ているしかないのです。それを僕たちは繰り返しました。助けてあげたいけれど、助けられない。見ているしかない。それで死亡をしたことの確認をとる。法律上、医師がそれをしないといけないのでやらされました。

患者さんは、医師が身体を見てくれると、助けてくれると思う。死への不安で心持も乱れに乱れている。目の前の人が医師だと思えば助けてくれると思う。その人に何も出来ない。辛いですよ医者は。

病院でみているときは、死因がわかっていて、あと何日ぐらいだろうということで、家族に知らせる。本人も分かる。そのときは静かに死んでいく。しかしあのとき死んだ人はさっきまで元気だった。
いつものようにしていたら、ヒカッと光って、どこかに飛ばされて、しばらく気を失った。そのうちに気がついて、あたりを見ると、薄くもりで曇っている。

それが晴れてくると自分は町の中にいたのに、町がない、道がない。原っぱになっている。不思議に思って、どこにいるんだろうと思って立ち上がる。そうすると裸でズルズルに焼けている。ユラユラ揺れながら、血だらけで歩いてくる。
なんでこんなことになったのか。飛行機が来たことも知らない人が多い。爆弾を落とされたという認識もない。

おばあさんが、何時ものように洗濯をしていたら、ピカっと光った。同時に熱い。わっと思ったら10メートルぐらいふっとばされる。気を失ってなにも分からない。おばあさんが目が覚めたら、周りが何もない。というがあのとき被爆を受けた人の実感です。
何がおこったかもわからないうちに、体をたたきつけられて、聞いたこともない放射線で体が壊されて死んでいく。

診る方の私から言うと、病院にいたら死んでいた。病院は3秒と建っていなかった。ぺしゃんこになった。597人という人が猛烈な熱で焼き殺された。たった3人だけが息があって、崩れた建物から這って出て病院の表門から逃げた。這って歩くような格好で逃げましたが、後から出た火事で焼き殺された。

たった一人、生きのびた人が現在87歳で生きています。四国の小島という家で、家業の会社をやっていて奥さんとふたりで生きてきました。子どもはいない。そのまま長く生きて、奥さんが病院に入りましたが、今日もまだ元気に生きています。
今度の福島の問題でとても心配して、何十年もの間、病気が出たりひっこんだり、苦しみが続いていく、そのことを自分のことよりも心配しています。

そういうわけで、あのとき死んだほうが楽だったと思いながら、病気を繰り返して生きてきたのが被爆者です。一番若い人が67歳か68歳です。被爆者がどんなふうになったのかという話では、即死した人のことは何の役にも立たない。
原発事故でこれからも放射線の被害は出ます。日本の国ではこのままいけば、どこかで放射線の影響で死に絶えてしまいます。全部やめれば別です。

私が経験した、放射線の影響で苦しんで死んだ、死に方を教えます。ひとつは直下に近いところ、爆心地があって、そこから1キロ2キロまでは、直接の放射線の影響が強かったので、死ぬ人が多かった。

その人たちの死に方を私は原爆投下の後にたくさん見ました。そのとき私はたまたま往診にいった6キロ先の村にいたので、そこで被曝しました。それでもピカっという光と、熱は十分に感じました。びっくりするほど熱かった。
夏ですから反そでのシャツを着て、夜中に患者を見たら、スヤスヤしていました。私は朝早く病院に帰るつもりだったけれど、寝坊して8時に起きた。

その家にいてピカっと光って、焚き火にあたっていて、後ろからつきとばされて炎に入ったような熱さでした。すごく熱かった。後で見たらやけどはしていませんでした。熱さだけは今でも覚えている。だからどこか近くに爆弾が落ちたと思って、つぎに”ドカン”がくると思って、伏せていました。
でもドカンがこないので見た。そうしたら何が空に上がっていくのかを見ました。これを見た人はもう私しかいません。

ちょうど広島の上空に、青空の中に真っ赤な火の輪ができました。不思議で見つめていました。その上に真っ白な雲があがって、どんどん膨れていく。初めの火の輪はそのままです。雲が大きくなって内側から火の輪にくっついた。そうした大きな火の玉ができました。直系が7キロと本には書いてあります。
僕の印象では夕日がときどき大きくみえるときがあります。それが目の前にぼっとできた印象でした。初めて見るので怖いのです。縁側で座りなおして、何が起きてもすぐに逃げられるような覚悟で見ました。

そうしたら火の玉が上に雲になって、きりもなくどんどん上にあがっていく。下のほうは山があって広島の町は見えない。きのこ雲は写真でみると、下も雲になっていますが、あれは後からのものです。僕が見たときは下が火柱だった。上がきのこ雲になる。
不謹慎ですが、その火柱が五色に輝いてとってもきれいでした。あとで被爆者の前で、とってもきれいだったと言って、あの下で何人死んだのかと言われ、謝ったことがあります。

その火柱のついている一番下から、真っ黒な雲が出てきました。それが火柱がついている山の向こうにいっぱいに広がり、山を越えて、こちらに向かってくる。こちらは大田川の麓にいて、そこには森やらなんやらがある。
そこを渦巻きができて、それがこちらに迫ってくる。幅広い日本の山々の間を渦を巻きながら押し寄せてうる。僕のところに迫ってくる。

それが村のそばまできました。下の方に小学校があるのですが、その瓦が紙くずのように舞い上がりました。それが僕の見た最後で、つむじ風がまともに僕がいた家にきました。足元をすくわれて、家の中を飛んでいきました。
舞い上がって目の前に天井がある。その天井が風で吹きぬけた。その上の茅葺きが壊れて空が見えた。その次に壁にぶつかりました。そうしたら屋根が落ちてきた。泥も塗ってあってそれも落ちてきた。丈夫な農家だったので、家は潰れず、その中で子どもを捜して表にでました。

続く

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