2012.09.23

明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)

守田です。(20120923 09:30)

明日のお昼頃、関西空港から台湾に向けて飛び立ちます。27日までの短い旅です。
今回の旅の目的は、私たちの義理の親子のような関係にある呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)さんを訪ねることです。阿媽(アマア)とは台湾語で「おばあさん」のこと。秀妹阿媽と初めて出会ったのは2006年秋のこと。証言をしてもらうために京都にお招きしました。

そのとき大変、仲良くなり、2008年秋にもお招きしました。台湾にも何度か阿媽を訪ねていきました。阿媽は90歳を越えているのに、とても元気で好奇心も旺盛。新しいことを見ると何でも挑戦したがるとても可愛らしいおばあさんです。
ところが今年になってその阿媽が弱ってきました。だんだん衰弱してきて、ふっくらしていた顔がかなり痩せてしまった。夏になり、入退院を繰り返すようになり、ご飯もあまり食べれなくなったと聞きました。「これはお見舞いに行くしかない!」阿媽に「日本の娘」と呼ばれている連れ合いや、一緒に活動を担ってきた友人と相談し、急きょ、訪問を決意。
それを台湾に伝えたところ、阿媽はまた元気になってくれて、退院してくださり、自宅で私たちを待ってくれています。運の良いことに、阿媽の誕生日が9月24日なので、台湾の支援者も集まって、誕生日パーティーを開く予定です。

今回はそれとともに、花蓮というところにも行くことになりました。タロコ族の方たちが住んでいるところで、その中のイアン・アパイ阿媽が、秀妹阿媽が来てくださったときに、ご一緒してくださいました。これへの返礼として友人たちが2007年2月に花蓮を訪ねたのですが、僕は急用が入ってどうしても行けなかった。それだけに今回の訪問は嬉しいです。
この他、台中にも訪れて、やはり入院している他の阿媽をお見舞いします。この方は僕はお会いしたことがない方なのですが、新しく阿媽とお会いできるのもとても嬉しいことです。27日に関空に帰り着いて、そのまま兵庫県篠山市、丹波市、舞鶴市を訪れる慌ただしいスケジュールになってしまったのですが、阿媽たちと温かい時間を過ごしてこようと思います。

さて、今回、この阿媽たちのことを紹介したいと思うのですが、そのために2006年秋に、初めて阿媽たちをお招きしたあとに、僕があるところに書いた報告文を掲載することにしました。2006年12月に書いたものです。これを読んでいただけると、阿媽の人となり、また阿媽たちと接することの意味をご理解いただけると思うからです。長くなりますがどうかお読みください。

*****

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月
証言集会京都 守田敏也

「あなたの名前は何というんだい。名前を教えておくれ。名前が分からないから、今日はあなたのことを何て呼んだらいいか、分からなかったよ」
アマアたちに泊まっていただいた宿舎から、私が帰ろうとしたある晩のこと、呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアが、パジャマ姿で玄関まで出てきて、こう語りだしました。アマアの話している言葉は台湾語、婦援会から付き添いできていた呉慧玲(ウーホエリン)さんが、英語で通訳してくれます。そこにみんなが集まってきました。
「あなた」とは私の連れ合いの浅井桐子さんのことです。彼女が「桐子と言うのよ」と答え、それが英語になり、台湾語になってアマアに伝わりますが、「きりこ」という発音は少し難しかったらしい。何度か「何て言うんだい?き・り・こ?」というやりとりが繰り返されました。やがてアマアは語りだします。「桐子は、今日は実の娘のようだったよ。こんなに優しくされたことはないよ。なのに私は名前も呼べなかったよ」。

この日、私たちは、アマアたちに秋の京都を楽しんでもらおうと、紅葉の名所として名高い鞍馬温泉にみなさんをお連れしました。そこに大阪での証言集会のために来日した、イオクソン・ハルモニが大阪の方たちと合流してくれました。
一行は、紅葉を楽しんだあとに、鞍馬温泉にゆっくりつかり、釜飯を食べて楽しい一時を過ごしました。その後に、蓮華寺というお寺によって抹茶を飲み、さらに衣料品店のユニクロによってショッピングも楽しみました。
宿舎に戻ってからは、アマアたちとハルモニを囲んで宴会を開き、シュウメイアマアも、かわいらしい美声を披露してくれた後のことでした。

「きりこはね。ずっと一緒にいてくれたんだよ。温泉でね、私の身体を洗ってくれたんだよ」「私はね、子どもが産めなかった。だからとても淋しかったんだよ。でも今日は実の娘がいるようだったよ。こんなに嬉しい日はなかった。」そう語りながら、シュウメイアマアは、ポロポロと涙を流します。
「洋服のお店でね。きりこは私のそばにいて選んでくれたんだよ。ホエリンはどこかにいってしまったよ。でもきりこがずっとそばにいたよ」。
私が語りました。「アマア、僕もね、もうお母さんがいないんだよ。だからアマアのことを本当のお母さんだと思っているよ」「ここにいるみんながね、アマアの娘や息子だよ」。すると若い仲間たちから「違う、違う、私たちは孫だよ」という声が出て、その場に笑いの渦がおこります。

「そうかい。そう思ってくれるかい。でもね、私は貧しいんだよ。息子や娘のお前に何もしてやれないよ」アマアはまたそういいながらポロポロと涙を流します。「いいのよ。こうして来てくれただけでいいのよ」と浅井さんが返すと「でも私は何かをしてあげたいんだよ」とアマア。「それなら台湾に行くから、アマアの手料理を食べさせて」。そう私が答えると「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」と言う。
「いいんだよ。何でもいいんだよ。台湾に会いにいくよ」。アマアは「ウン、ウン」とうなずいて、また涙を流しました。周りのみんなももらい泣きしながら、笑顔が絶えません。そのままゆっくりと時が過ぎて行きます。

やがて私は車に乗り込み、自宅に向かいました。ハンドルを握り、暗闇の中に照らし出された道路に目を凝らしながら、「ああ、良かったなあ」という気持ちがこみ上げてくることを感じました。アマアたちに京都に来てもらい、証言をしてもらうのは、直接には政府の謝罪を引き出して、この問題の解決を目指すためですが、今すぐそれを実現することはあまりに難しい。ならばせめて、アマアたちに日本に来て、自分の思いを語って良かったと思って欲しい。日本の若者が分かってくれた、思いが伝わったと感じて欲しい。そのために、心を尽くしたおもてなしをしよう。それが私たちのグループが心がけて来たことだったからです。
この日は来日から3日目。まだスケジュールの後半が残っていましたが、今回のアマアたちとの出会いが、すでに素晴らしいものになりつつあることを、私は感じていました。あと2日間、何でも望みを叶えてあげたいなと思いながら、私は車を走らせました。

「今度は台湾からおばあさんたちを呼ばない?」
そんな話が私たちの間で出てきたのは、2005年秋に、フィリピンからピラール・フリアスさんをお招きした前後のことでした。
私たち証言集会京都がスタートしたのは、2004年の春。この年は韓国から、イ・ヨンスハルモニをお招きしました。翌年、春にも、桜咲く京都を楽しんでいただきたくて、彼女に来ていただき、秋にはフリアスさんをお呼びしました。
春過ぎから準備として、フィリピンのことに関する学びを深めましたが、それぞれの国や地域によって、同時にまた連れ去られた戦場によって、被害女性の辿った体験が、大きく違うことを私たちは学びました。

一方で、辛い過去を、勇気を持って告発し、社会的正義の実現を求めて行動しているおばあさんたちには、共通の、深い、人間愛があることを感じました。このような経験を経たあとだったので、ある方から「台湾は支援組織もしっかりしていて、ユニークな活動を行っている。お呼びしてみては」と持ちかけられたとき、私たちは、二つ返事で応じることにしました。違う地域のおばあさんたちと交流することで、より私たち自身が成長できるようにも感じたのです。

台湾からお招きすることを決めてから、私たちはまず台湾の歴史を学び始めました。すぐさま分かったことは、私たちがほとんど何も台湾のことを理解していないことでした。またそこには台湾の複雑な歴史の問題自身も横たわっていることを知りました。
自分たちで文献を探したり、大学の研究者をお招きしてレクチャーを受けたり、台湾からの留学生と交流して話を聞いたり、いろいろな角度から学びを深めましたが、その中で私自身は、1997年に発行された『台湾を知る(原題は認識台湾)』という台湾国民中学歴史教科書の日本語版と出会いました。

そこにはこう書かれていました。「1997年の台湾で、大きな話題になった一つが、初めての台湾史教科書(国定)、つまり本書の登場である。「初めて」というと、日本人には意外かもしれないが、実は台湾の学校教育で、これまで「本国史」として教えるのは中国大陸の歴史だけだったのである」「この国における「民主化」とは文字通り、台湾の「民」がよその土地から来た政権の統治から脱却し、初めてこの島の「主人公」になったことを意味している。」
つまり台湾の人びと自身にとっても、歴史は、ようやく自分たちの手で書き始められたところなのでした。日本の植民地時代への評価も含めて、台湾では今、歴史の捉え返しが進行中であることが分かりました。

しかしそのことに触れて、私は考えてみれば、日本も大して変わらないという気持ちを強く持ちました。とくに現代史について、日本の学校ではまともに教えていません。第二次世界大戦についてもそうです。それどころかわずかに教科書にあった性奴隷問題に関する記述も、なくなりつつあります。
それは同時に、太平洋戦争末期において、アメリカが行った大量虐殺の歴史が不問にふされていることも意味します。今、日本は世界中でも際立った親米国家ですが、アメリカには広島・長崎に原爆を投下され、沖縄は島民の三分の一が亡くなる上陸戦をしかけられ、さらに全国80以上の都市が、空襲によって焼け野原にされました。
私はそのことを、アメリカに謝罪させる必要があると思っています。アメリカは民間人の大量虐殺であった原爆投下も、都市空襲も、いまだに悪かったとすら思っていないからです。そして朝鮮、ベトナム、アフガン、イラク等々、大量虐殺の戦闘を繰り返し続けています。

このことを不問に付して来たことと、日本のアジア侵略の徹底した反省を深められなかったこと、そのもっとも非人間的なあらわれである性奴隷問題に、政府の真摯な謝罪がなされていなことは、密接にからみあっているのではないか。私はそう思うのです。
私自身、広島原爆後に、陸軍兵士として救助にかけつけながら、爆心地に入らなかったために二次被曝をまぬがれた父と、東京深川に生まれ育ち、東京大空襲の爆心地にいながら奇跡的に助かった母の間から生まれた子どもです。その私のルーツを探ることと、アマアたちの受けた傷をとらえかえしていくことは一つにつながっている。台湾の歴史を捉え返し、書き換えて行くことは、私たちの歴史を書き換えることであり、よりよきアジアの未来を探ることだと感じたのです。

さてそのような準備を経ながら、だんだんと予定の日にちが近づきだしました。私たちは、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の柴洋子さんと連絡を取り、台湾のアマアたちのことをさまざまに教えてもらい、やがて婦援会のホエリンさんと直接メールのやりとりを始めました。
10月には二人のアマアと、ホエリンさんが埼玉を訪れるになったので、メンバーの浅井さんと村上麻衣さんが埼玉まででかけ、たくさんのことを学んで帰ってきました。
ホエリンさんとの連絡のメールは、浅井さんが担当しましたが、私が英訳を行ったので、だんだん自分がメールのやりとりを行っている気持ちになってきました。

ところが来日が迫ってくるのに、なかなか来られる方が決まりません。こちらはアマア一人と付き添いの方一人分の旅費を用意していると伝えていたのですが、決まらないのです。スケジュールのディティールを教えて欲しいというので、証言集会のあとにウェルカムパーティーを用意していることや、鞍馬温泉へ遊びにいくこと、証言は他に仏教大学にいくこと、観光にも案内することなど、一緒に楽しみたいことを伝えようとしました。
それに対する回答は、なんと3人のアマアがやって来るとのことでした。さきほど紹介した呉秀妹さん(91歳)と、陳樺(チンホア)さん(83歳)、イアン・アパイさん(78歳)です。それにホエリンさんの他、楊麗芳(ヤンリーファン)さん、高秀珠さんが付き添ってくるとのこと。2人の予定が6人です。渡航費用は2人でいいとのことでしたが(後に台湾政府から援助が出ていることを教えてもらいました)、これには驚きました。
「えーい、やるしかない」と決断。すぐさま車の手配などに入りました。大きなレンタカーを借りる、2台、いや3台の車を使うなど、候補が二転三転します。

と、ところが、肝心のフライトスケジュールがこれまたなかなか決まらない。迎えに行く時間がきまらず、車の手配ができません。いやそれどころか本当に来日できるのか、だんだん不安になってきます。
ホエリンさんに問い合わせたところ、どこかのんびりした回答が帰ってくる。それが一層不安を募らせるのですが、間際になって彼女からのメールにも焦りが反映しだします。「まだチケットが取れないので、スケジュールの確定はもう少し待って欲しい」そんなメールが届きましたが、とうとう直前になって「帰りのフライトがまだ取れません。ここまできたら、私たちが行けるかどうかは運にかかっています」というメールが。しかも“See you soon”(直訳は「すぐにお会いします」)と結ばれていたメールが“I hope see you soon”(直訳は「すぐにお会いできることを願っています」)に変わっている。ホ、ホープ?
結局、このメールを最後に、連絡は途絶え、不安を抱えながら関空まで出迎えることになりました。最悪の場合、埼玉の集会のときに撮ったビデオを流すしかないと腹をくくりつつ、空港に向かいましたが、そこには一行6人がちゃんと来て下さいました。合流できた時の嬉しさは一塩でした。

その後に、怒濤のような毎日が始まりました。その詳細は取材日記として書かせていただいて、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会のホームページに載せていただきましたので、それにゆずりますが、とにかく毎日がハプニングの連続でした。
もっとも意外だったのは、アマアたちが3人ともとても元気だったこと。行動力があり、好奇心旺盛で、体力も抜群でした。高齢のおばあさんたちだからと、ふんだんにとってあった休憩時間は、すべて何かのスケジュールに変えられました。ホエリンさんが“Morita-san, Do we have time?”と尋ねてきては、あれをしたい、これをしたいと話してくるのです。その横でおばあさんたちが目をキラキラさせている感じがして、その都度、ご要望に応えることになりました。
今から思えば、アマアたちの身体の調子や疲れ具合を一番知っているのがホエリンさんでしたから、ざっくばらんに要望を出してもらえてとても良かった。結果的に、楽しそうにはしゃぐアマアたちの顔をたくさん見ることができました。紅葉や金閣寺を見て、日本語で「きれい、きれい」と語るアマアたちの顔、ショッピングにでかけて、たくさんの洋服を手につかんで、夢中になっている顔、どれも今でも思い出すと楽しくなります。

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜなら彼女は、今回が初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。
彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。
そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

このようにしてアマアたちをお迎えした5日間は、あっという間に過ぎて行きました。それは夢のような素敵な日々でした。私たちは今、来京へのお礼をするために、2007年2月に台湾を訪問することを計画中です。
どなたとの再会も楽しみですが、とくに私が心にかけているのは、イアン・アパイアマアの山を訪れることです。アパイアマアは、独特の尊厳あふれる風貌を持ち、その上、いつも静かに笑っている方でした。その横に、アマアと同じ苦しみを受け、痛みを分け合ってきながら、先年、亡くなられた雷春芳(レイチュンファン)アマアの娘さんの高さんが寄り添っていました。
今回の短いお招きでは、タロコ族のなかで、被害女性として生きてきたアマアの思いに、十分、耳を傾ける時間を持つことができませんでした。それをアマアの愛する山に行って聞けたらと思うのです。そしてそのお話も、きっといつかまた、私の体内に流入してくるでしょう。

私たちは、彼女たちの受けた苦しみを、私たちの中に取り込むことで、人間的に豊かになり、平和を紡いでゆく力を、私たちの中に育んでいけるのだと思います。その可能性に触れることができることは喜びであり、誇りでもあります。そのことをしみじみと感じることのできた経験を、私は積極的に生かしていきたいと思います。

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