2016.08.23

明日に向けて(1292)ベンサムのパラドックスを問う(功利主義の世紀を越えるために-1)

守田です。(20160823 11:30)

8000ベクレル問題の解析の途中ですが、またちょっと唐突かもしれませんが、今回は思想問題を論じたいと思います。
というのはちょうど1年前の8月30日に、京都市・出町柳のかぜのねで以下のような企画でお話したのでした。

日本の社会活動のあり方を考えよう
-スコットランド啓蒙思想の対話性と現実性に学ぶ-
https://www.facebook.com/events/795032107261199/

当時、これに続けて思想問題を論じ続けようと思っていたのですが、目の前の課題に追われているうち早一年が経ってしまいました。
その間に、昨年9月に戦争法が強行可決され、本年7月の参院選では改憲勢力が議席の3分の2を獲得してしまいました。
憲法と平和が危機に立っています。

この状態を打開していくために多くの人々が努力を続けていますが、僕はそのための力の一部を思想問題に振り向けなければと思い続けてきました。
とくに重要なのはマルクス主義に代わる現代社会へのアクチュアルな批判の観点をみんなで紡ぎ出すことです。
もちろんかといって、新たな大理論の打ち立てを目指すわけではありません。そうではなくてなすべきこと、深めるべきことは、私たちが向かい合っている社会への批判的考察です。

これはこの間の安倍政権の暴走の中で新たな高揚を迎えてもいる市民運動を、これまでのように四分五裂に終わらせてしまうことなく、大きな連帯、多様な違いを認め合った団結へと発展させるための試みでもあります。
そのために私たちが格闘しているこの社会とは何なのかについての共通認識を作り出すことが肝要だと思うからです。もちろんここでの考察が目指しているのは、そのためのほんの一助に過ぎませんが重要な試みだと自負しています。

さて、ご承知のようにマルクス自身は、この試みを「資本主義批判」として成し遂げようとしました。その際、彼は「経済学批判」という手法を採り、のちに『資本論』にその考察をまとめていきました。
現にある社会を何もないところから分析するのではなく、この社会がいかに捉えられてきたのか、人々にいかに認識されたのかを問う道筋を採ったのでした。
この中で経済学徒から肯定的に捉えられている資本主義社会の批判的分析を紡ぎ出すのはマルクスの「戦略」でした。
こうしたマルクスの方法論に学びつつ、ここではしかし「経済学批判」ではなく「社会思想批判」という手法を採用したいと思います。

その際、もっとも重要な思想としておさえるべきは「功利主義」だと思われます。なぜなら現代世界の大きなエートスにまで昇華しているのがこの功利主義だからです。
しかし功利主義は「損得勘定」などの言葉にも置き換えられ、どちらかというと日本では不人気な思想です。不人気でありながら、しかし企業経営などでは必須の発想として踏まえられてもいるもので、ここに重要なポイントがあります。
また「左翼」と分類される社会運動の側から、この功利主義への内在的批判を試みた考察がほとんど出てこなかったことが、現代社会の解明に大きな欠損をもたらしてきたのではないかと僕には思えます。

そこでここでは功利主義の祖であるジェレミー・ベンサムの思想を取り上げたいと思います。
とくに留意したいのはベンサムの何がその後の世界に大きな影響を与えたのか、その肯定面を一度抽出することです。
その上で、「損得勘定」ないしその権化としての「拝金主義」にもつながっていったベンサムの思想の歴史的限界、その意味でのベンサムのパラドックスの捉え返しをここで試みていきたいと思います。
社会運動の豊かな発展を願いつつ、以下、考察を進めたいと思います。
1、ベンサムによるイギリス経験論の転回

1年前に、スコットランド啓蒙思想の捉え返しの中で論じてきたことですが、近代ヨーロッパには大きな二つの思想潮流がありました。
今日、人々はそれを「イギリス経験論」「大陸合理論」と呼びならわしています。スコットランド啓蒙思想は前者の中核をなすものであり、イギリス市民革命を経る中で成熟を迎えていきました。

出発点を誰と捉えるのか幾つかの意見があると思われますが、重要なのはイギリス市民革命に影響を与えたジョン・ロックなどの考察だと思います。
そこで問題とされたのは、絶対王政が依拠し独自に解釈したたカソリック思想やイギリス国教と、他方でのピューリタン革命の思想的バックボーンをなしたカルヴァン主義への批判の内包でした。
つまりそこでは当時のキリスト教的世界観=人間を原罪を負った不完全な存在としてとらえ、だからこそ神の代弁者たる教会や絶対王政への服従を求めた思想に対するアンチとして現世肯定的な考え方が押し出されたのでした。

中でも重要だったのは、「神の千年王国」の実現ではなく、この世の中での幸福の実現を目指し、そのために諸個人の利己心の追及の積極的な肯定が打ち出されたことです。
だからといってそれはむき出しのエゴイズムの肯定としてなされたわけではありません。むしろ明確な社会正義による裏打ちが目指されたのでした。
つまり人間の利己心を肯定したイギリス経験論は、一方で相互に利己的な人間たちが、神学的な何らかの権威を必要としなくとも、相互理解にたった尊厳あふれる社会を形成しうる根拠を探し続けたのでした。
ゆえにそれはやがてフランス革命やアメリカ独立戦争の指導的理念ともなり得たのであり、近代の人間的正義を打ち立てようとする試みに大きな影響を与えてきたのでした。

しかしこうしたイギリス経験論の流れは、産業革命期に入ったイギリス資本主義の成長と共に、次第に人間の幸福を金銭の多寡に一面化していく「金儲け第一主義」へと連なってしまいました。
その意味で、全てを利害計算によって価値づけていくという意味での「功利主義」への変容を見ていくこととなったのです。そしてその重要な転換点に位置していたのが今回、問題にするジェレミー・ベンサムでした。
そのため、ベンサムの思想を考察することは、現代自由主義の肯定面と否定面を併せて捉えるための重要な手掛かりになります。

その際、注目しておくべきことは、ベンサムの意図したところもまた単なる私利私欲の賞賛ではなく、人々に快楽を与えるのは善、苦痛を与えるのは悪、という原則に基づく立法を行い、社会的正義を打ちたてることだったということです。
にもかかわらず彼の主張は、後年に私利私欲の賞賛として受け取られてしまいました。
その意味でのベンサムのパラドックスを解き明かすことから、現代社会の秘密、幸せの追求がしばしば金銭の多寡に一元化されてきてしまったカラクリを捉え返していきたいと思います。

続く

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