2012.08.11

明日に向けて(526)「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャルより)

守田です。(20120811 07:00)

8月6日にNHKスペシャルで「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」という番組が放映されました。戦後、広島・長崎で、被爆者調査を独占的に行ったABCC(原爆傷害調査委員会)が、黒い雨に関する93000人からの聞き取り調査を行いながら、そのデータがまったく活かされてこなかったことを告発した迫真の番組でした。

非常に重要な内容が含まれていたので、番組全体を文字起こししました。長いですが番組を見る余裕の無い方はぜひお読みください。なお番組は、今なら以下のアドレスから観ることができます。

2012.8.6NHKスペシャル「黒い雨」完全版 – YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0F0_g1CdHwg

再放送も、14日午前0時50分よりNHK総合で行われます。見逃された方はぜひキャッチしてください。

この番組内容について、いろいろコメントしたいところですが、起こした内容が長いので、今回はまず文字起こし分だけ掲載し、次回にコメントを掲載することにさせていただきます。

以下、番組を紹介します。

***********

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」2012.8.6NHKスペシャル

広島に住む女性が大切に保管しているものがあります。無数の黒いシミが残るブラウスです。

「染み込んどるの洗っても洗ってもとれんかった、これ。」

原爆投下直後、広島に降った黒い雨。67年前の確かな痕跡です。

アメリカが広島・長崎に投下した原子爆弾。きのこ雲には、爆発で巻き上げられた地チリや埃とともに大量の放射性物質が含まれていました。それが上空で急速に冷やされ、雨となって降りました。いわゆる黒い雨です。

原爆資料館に保管されている雨だれのあと、原爆の材料となったウランなどの放射性物質が検出されています。しかしこれまで雨がどこに降り、どれだけの被曝をもたらしたのか詳細なデータがないため、わからないままになっていました。

ところが去年12月、国が所管する被爆者の調査をする研究所に大量のデータが存在していたことが明らかになりました。

公開されたのは広島・長崎10000人を超える被爆者がどこで雨にあったのかのを示す分布図です。丸の大きさが雨にあった人数を表しています。データは戦後、被曝の影響を調べる大規模な調査の中で集められたものでした。突然あかされた新事実。黒い雨を浴びてガンなどの病気になっても、その影響を認められなかった人たちに衝撃が広がっています。

「どうしてだしてくれんかったんかね。こういうものがあったのに」
「これはもう、憤り以外の何者でもないですよね」

このデータをもとに、黒い雨の実態解明を進める動きも起きています。最新の研究で、雨が多く振ったところで、被爆者ががんで死亡するリスクが高まっている可能性が浮かびあがってきたのです。

「まったく驚きですね。リスクが高くなっている地域が黒い雨の影響を受けているんだろう」

黒い雨のデータはなぜ生かされてこなかったのか。それは今の時代に何を語るのか。被曝から67年、はじめて明らかになる真実です。

今回公開された黒い雨のデータ、その存在があきらかになったのは長崎のある医師が抱いたある疑問でした。長崎市内で開業している本田孝也医師です。黒い雨を浴び、体調不良を訴える患者を長年診てきました。

「アメの色は黒かった?」
「はいもう黒かったですよ、汚れて」
「髪の毛が抜けたとは」
「私は髪の毛が抜けたなという感じはしましたもんね。」(患者との対話)

患者の中にはガンや白血病などの病気になった人も少なくありませんでした。しかし詳しいデータはなく、どうすることもできませんでした。何か資料はないのか。さまざまな文献に当たる中で、去年、気になる報告書を見つけました。広島と長崎で、被爆者の調査をしてきたアメリカの調査機関ABCCの調査員が内部向けに書いたものでした。そこには黒い雨を浴びた人に、被曝特有の出血斑や脱毛などの急性症状が出たことが集計された数字と共に記されていました。元になったデータがあるのかもしれないと本田さんは思いました。

「そんなことは聞いたことがなかったので、それほどのデータがあったのかなと、ずっと昔から研究されている研究者の中で話題にならなかったのかというのが、最初は不思議だなと思ったところですね。」

本田さんは当時、報告書を書いた研究員がいた研究所に問い合わせました。アメリカのABCCを引き継いだ放射線影響研究所、放影研。国から補助金を受けて、被爆者の調査を行い、そのデータは被曝の国際的な安全基準の元になってきました。本田さんに対する放影研の答えは、確かに黒い雨に対する調査は行ったが、詳細は個人情報であり、公開はできないというものでした。そのとき渡されたのは調査につかったからの質問表でした。どこで被曝したか、どんな急性症状を起こしたか、数重もの質問が並んでいました。1950年代、ABCCが放射線の人体への影響を調べるため、広島と長崎の被爆者93000人に行った聞き取り調査でした。

「原爆はどちらでおあいになりましたか?脱毛はありましたですか?」
「すっかり毛が抜けてしまったんです」

原爆直後、雨にあいましたか?黒い雨に関する聞き取り項目もありました。放影研は本田さんとの数回におよぶやりとりの末、13000人がイエスと答えていたことを初めて明かしたのです。

「ほんとかなという実感がわかなくて。なんかありそうじゃないじゃないですか、そんな膨大なデータをいまどき、そのままにしているなんて。そこからは何かがでるはずだろうし、何で今まで出さなかったのかという、ちょっと険しいやりとりになったのですけれど。」

マスコミから問い合わせが殺到し、2ヵ月後、放影研は分布図だけを公開しました。これまで公開しなかった理由について、隠してきたわけではなく、データの重要度が低いと判断したからだとしています。その根拠は何か。放影研が重視してきたのは、原爆炸裂の瞬間に放出される初期放射線です。その被曝線量は爆心地から1キロ以内では、大半が死に至るほど高い値ですが、2キロ付近で100mSvを下回ります。100mSvは健康に影響をもたらす基準とされている値とされていて、放影研はそれより遠くでは影響は見られないとしているのです。

しかし被曝はそれだけではありません。黒い雨や地上に残された放射性物質による残留放射線です。原爆投下後の1ヶ月あまりの後の測定から、被曝線量は高いとことでも10から30mSvと推測されています。

放影研の大久保利晃理事長。残留放射線の被曝線量は、研究の中で無視してよい程度だったとしています。

「集団としてみた場合には黒い雨の影響はそんなに大きなものではなかったと思います。影響はないとは言ってませんよ。もちろん放射線の被曝の原因になっているということは間違いない事実だと思いますけれど。それが相対的に直接被曝の被曝線量と比べて、それを凌駕する、あるいは全体的に結論を変えなければいけないようなものであったかという質問であっととすれは、それはそんなに大きなものではなかったと。」

公開された分布図を見ると、黒い雨にあった人は、爆心地から2キロの外にも多くいたことが分かります。それなのになぜ黒い雨の影響を調べなかったのか。多くの人が、放影研の説明に納得できずにいます。

爆心地からおよそ2.5キロ。広島市の西部、己斐(こい)地区です。黒い雨が激しく振りました。しかしひとりひとりが黒い雨を浴びた確かな証拠はありません。

佐久間邦彦さん。67歳です。当時、生後9ヶ月だった佐久間さんにとっても、黒い雨を浴びたことを示すものは自分をおぶっていた母の話だけでした。

「聞いているのは最初、パラパラっときて、それからザーッときたというふうには聞いてますけどね。頭と背中と、当然、もろに濡れたんじゃないかなと思っています。」

佐久間さんは幼いころから白血球の数が異常に少なく、小学生のときには、腎臓と肝臓の大病を患いました。母親の静子さんは乳がんを発症。しかし黒い雨を浴びた確かな証拠はなく、その影響を強く訴えることはできませんでした。佐久間さんは放影研のデータの存在を知り、自分のデータはあるのか問い合わせました。二週間後、送られてきた封筒には、調査記録のコピーが入っていました。

「イエスというふうにこれ(原爆直後、雨ニ逢イマシタカ?)にチェックしてあります。まさかですね、私がこの中の人になるとは思っていなかった。」

調査に答えていたのは母、静子さんでした。母が答えた調査記録があるのに、なぜ国は病気のことを調べてくれなかったのか。病気と黒い雨との関係を明らかにできなかったのか。疑念が沸いてきました。

「そのままにしておかれたのかという、私たち被爆者の立場から考えたら、もう何の調査もされていないということは、これはもう憤り以外、なにものでもないですよね。」

今、放影研から調査記録を取り寄せる被爆者が相次いでいます。私たちは今回、被爆者の承諾を得て、53人分の調査記録を集めました。被爆者自身、初めて眼にする黒い雨の確かな記録です。中には、発熱や下痢など、複数の急性症状が爆心地から5キロの場所にいたにもかかわらず、強く出ていたという記録もありました。

調査を行ったABCCは、黒い雨のデータを集めていながら、なぜ詳しく調べることなく眠らせていたのか。私たちは調査を主導していたアメリカを取材することにしました。

(アメリカ・ワシントン)

ABCCに資金を提供し、大きな影響力を持っていたのが、原子力委員会(現エネルギー省)です。戦時中、原爆を開発したマンハッタン計画を引き継ぎ、核兵器の開発と、原子力の平和利用を、同時に進めていました。

被爆者の調査がはじまったのは1950年代。

「核分裂物質が人類の平和のために使われるだろう」(アイゼンハワー大統領)

アイゼンハワー大統領の演説を受け、原子力の平和利用に乗り出したアメリカ。しかし核実験を繰り返した結果、国内で被曝への不安が高まり、対処する必要に迫られていました。

原子力委員会の意向を受け、ABCCは被曝の安全基準を作る研究にとりかかります。被爆者93000人について、被曝した状況と健康被害を調べて、データ化する作業がいっせいに始まりました。

当時の原子力委員会の内情を知る人物が、取材に応じました。セオドア・ロックウェル氏、90歳です。戦時中、広島原爆の開発に参加したロックウェル氏は、原子力委員会で、原子炉の実用化を進めていました。安全基準を一日も早く作ることが求められる中で、黒い雨など、残留放射線について調べる気は初めからなかったといいます。

「被爆者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るためのものだと最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査するなんてなんの役にも立ちません。」

さらに私たちは残留放射線の問題に対する原子力委員会の強い姿勢を示す資料にいきあたりました。

「これは原子力委員会からの手紙です。1955年のものです。」

手紙を書いたのは、原子力委員会の幹部だったチャールズ・ダナム氏。調査を始めるにあたって、学術機関のトップにこう説明していました。

「広島と長崎の被害について、誤解を招く恐れのある、根拠の希薄な報告を抑え込まなければならない。」

ダナム氏が抑え込もうとしていた報告とは何か。ちょうどそのころ、広島のABCCで残留放射線の影響を指摘する報告書が出されていました。

「広島における残留放射線とその症状」。報告書を書いたのは、ローウェル・ウッドベリー博士。広島のABCCで統計部長を務めていました。報告書の中で博士はまず、黒い雨など残留放射線の影響は低いとした当時の測定結果に疑問を投げかけています。原爆投下の1ヵ月後、巨大な台風が広島を直撃。ほとんどの調査はそのあとに行われ、測定値が正確でなかった可能性があると指摘しています。

「台風による激しい雨と、それに伴う洪水によって、放射性物質の多くは洗い流されたのかもしれない。」

ウッドベリー博士は、実際の被曝線量は、健康被害が出るほど高いレベルではなかったかと考えたのです。

その根拠として、ある女性の調査記録を示しています。下痢や発熱そして脱毛など、九つもの急性症状が出たことをあげ、黒い雨など、残留放射線の影響ではないかと指摘しています。

「女性が被曝した4900メートルの距離では、初期放射線をほとんど受けていないはずだ。女性は市内をさまよっている間、黒い雨が降った地域を数回通っている。この領域の放射線量が高ければ、症状が出るほどの被曝をしていたかもしれない。」

女性の名前は栗原明子(くりはらめいこ)。取材を進めると、この女性が今も広島にいることが分かりました。

栗原明子さん。86歳です。当時、ABCCに事務員として務めていたため、ウッドベリー博士の調査の対象にもなっていました。原爆が投下されたとき、爆心地から5キロの場所にいた栗原さん。その後、市の中心部にあった自宅に戻り、激しい急性症状が出たのです。

「髪をといたら、櫛にいっぱい髪の毛がついてくるから、これはおかしいね思って、髪の毛が大分抜けましたね。」

しかし残留放射線の影響をうたがっていたのは、ウッドベリー博士だけで、ほかの研究者に急性症状のことを話しても、まったく相手にされなかったといいます。

「怒ったように言われましたね。絶対にありえないいうて。二次被曝というようなことは絶対にありえないからって断言されました。矛盾しているなあ思ったんですけれど、本当に私も体験して、他にも体験した人をたくさん知ってましたからね。なぜそれは違うんかなあと思って、不思議でしかたがなかったんですけれども」。

ウッドベリー博士が報告書を書いた直前、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行っていました。日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、放射性物質を含んだいわゆる死の灰を浴び、乗組員が被曝。死の灰の一部は日本にも達し、人々に不安が広がっていました。

「一方、青果市場には、おなじみのガイガーカウンターが出動しました。青物をしらみつぶしに検査しましたが、ここでも心配顔が増えるばかりです。」(当時のテレビニュースより)

「最近、日本の漁師が、水爆実験による死の灰で被曝するという不幸な事件が起きた。今、広島・長崎の残留放射線に対する関心が、再び高まっている。この問題は、より詳細な調査を必要としているのだ。」(ウッドベリー博士)

原子力委員会のダナム氏は、こうした主張こそ、東西冷戦の最中にあったアメリカの立場を悪くするものだと警告します。

第五福竜丸事件の後、日本で反米感情と、反核の意識が高まっていました。広島では第1回、原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆者が被害の実態と核の廃絶を訴えはじめていました。

「もしもここでアメリカが引き下がれば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなればアメリカは敗者となってしまうだろう。」(ダナム氏)

被害の訴えに強く対処すべきだという考えは、原子力委員会の中であたりまえになっていたとロックウェル氏はいいます。

「放射線被害について人々が主張すればするほどそれを根拠に原子力に反対する人が増えてきます。少なくとも混乱は生じ核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広まります。私もアイゼンハワー大統領も考えていたように原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げになるものは何であれ問題だったのです。」(ロックウェル氏)

1958年11月、原子力委員会の会議にダナム氏と、広島から呼び寄せられたウッドベリー博士が出席。残留放射線の問題が議論されました。議事録は公開されていません。分かっているのは、会議の1ヵ月後、ウッドベリー博士が、ABCCを辞職したことです。

ウッドベリー博士の報告書には、こんな一説が残されています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ウッドベリー博士が、報告書の中で残留放射線の影響を指摘した栗原明子さんです。戦後、貧血や白内障など、さまざまな体調不良に悩まされ続けました。しかし被曝直後の急性症状も、その後の体調不良も、その後の研究で省みられることはありませんでした。

1975年、ABCCは組織改正されます。日本も運営に加わる日米共同の研究機関、放射線影響研究所が発足しました。研究の目的に被爆者の健康維持や福祉に貢献することも加えられました。ABCCの調査を引き継ぎ、被爆者の協力のもと、放射線が人体に与える影響を研究しています。

国は放影研の調査結果をもとに、被爆者の救済にあたってきました。原爆による病気と認められた人に医療手当てを支給する原爆症の認定制度です。救済の対象は実質、初期放射線量が100mSvを越える2キロ以内。残留放射線の影響はほとんど考慮されてきませんでした。原爆症と認められる人は、現在、被爆者全体のわずか4%、8000人にとどまっています。被爆者は自分たちの調査をもとに作られた国の認定制度との闘いを強いられることになりました。

2003年から全国にひろがった原爆症の認定を求める裁判。その中で被爆者は、半世紀以上も前の被曝の影響を自ら証明することを求められたのです。

原告の一人、萬膳ハル子さん(享年68)です。爆心地から2.6キロで被曝、黒い雨に合いました。訴訟が続いていた2005年、原爆症と認められないまま肝臓がんで亡くなりました。遺族のもとには戦後の貧しさの中で学校に行けなかった萬膳さんが、国に訴える紙を書くために練習していた文字が残されています。

「一生懸命に頼みたいからね、こういう字とか、「切実」とか」

自らの苦しみを必死に伝えようとしていた萬膳さん。それに対し、国は、裁判で被曝の確たる証拠を示すように迫ったのです。

「黒い雨を浴びたなどと供述しているが、それに放射性物質が含まれていた証拠はなく、肝臓がんの発症に影響を与えるとの知見も存在しない。」「脱毛などの症状も、客観的証拠は存在しない上、考えられる被曝線量からすれば、放射線による急性症状とは考えがたい」(国が提出した裁判資料より)

萬膳さんが亡くなった翌年、黒い雨の影響を認める判決が出されました。しかしそれから6年が経った今も、国は認定制度を抜本的に見直そうとはせず、黒い雨の影響についても、認めようとしていません。

30年以上、被爆者の医療にかかわり、医師として原告団を率いてきた齋藤紀さん(医師)。詳細な調査もせず、黒い雨の影響をないものとしてきた国こそ、責任を問われるべきだと考えています。

「初期放射線で国は説明がつかないから被曝がなかったんだと国は言っているのですけれども、説明のつかない放射線にもとづくと思われる症状が、多数被爆者の中に認められていたわけですね。その被害がなかったのかどうかは、その調査を突き詰めていくことによって結果として出てくることであって、その調査をつきつめないで被害がなかったというのは科学の常道ではないわけなんですね」(齋藤医師)

解明されてこなかった、黒い雨が人体におよぼす影響。放影研のデータが公開されないなか、被爆地広島の科学者たちが、独自の研究で明らかにしようと動きはじめています。(原爆放射線医科学研究所の映像)

広島大学の大瀧慈教授です。被爆者ががんで死亡するリスクについて研究してきました。大瀧教授らは、被ばくした場所によって、がんによるリスクがどのように変わるか調べてきました。すると意外な結果が得られたのです。

初期放射線の量は、距離と共に少なくなるため、死亡のリスクは同心円状に減っていくはずです。しかし結果は、爆心地の西から北西方向でリスクが下がらないいびつな形を示しました。初期放射線だけでは説明のできないリスクが浮かび上がってきたのです。

「まさか、同心円状でないようなリスクの分布があるということは、まさしく想定外だったと思いけれども。はい。」

このリスクは黒い雨によるものではないか。しか大瀧教授らが使ってきた独自の被爆者データだけでは、確認できませんでした。37000人について、どこで被爆したか調べていますが、黒い雨にあったかどうかまでは尋ねていなかったからです。

去年、放影研が黒い雨の分布図を公開してから、大瀧教授らは新たな分析を試みました。被爆者ががんで死亡するリスク全体から、初期放射線の影響を取り除きます。すると問題のリスクが姿を現しました。それは西から北西にかけて、爆心地よりも高くなっていたのです。

これを今回、放影研が公開した黒い雨の分布図とあわせると、雨にあったと答えた人と、重なったのです。

「やはりその、リスクが高くなっている地域というのは、黒い雨の影響を受けたのであろうということが、強く示唆されているものと考えております。直接被ばく以外の放射線の影響が、あまりにも軽視されてきたのではないかなということが、今回のわれわれの研究を通じてですね、明らかになってきたのではないかと思っております」。(大瀧教授)

今年6月、大瀧教授らのグループは、研究成果を学会で発表しました。「黒い雨などの放射性降下物が影響しているのではないかと想像されます」。(研究員の学会における説明より)

黒い雨によるリスクをさらに明確にしたい。大瀧教授は放影研が持つ黒い雨のデータを共同で分析したいと考えています。

放影研はABCCが作成した93000人の調査記録をもとに、すべての被爆者を追跡し、どのような病気で亡くなったか調べています。国から特別な許可を得て、毎年全国各地の保健所に、新たに亡くなった方の調査票を送り、死因の情報を入手しているのです。黒い雨にあったと答えた13000人について死因の情報を分析すれば、黒い雨の人体への影響を解き明かせるのではないか。大瀧教授は考えています。

「黒い雨の影響を研究する上で、世界に類をみない貴重なデータだと思います。可能な限り、広い見かたができるような状況で解析をするということが、データから真実をひきだす必要条件だと思います。そうするとデータはおのずから語ってくれるようになると思います。真実をですね」。(大瀧教授)

こうした指摘を放影研はどう受け止めるのか。共同研究については、提案の内容を見て判断したいとしています。しかし黒い雨による被曝線量が分からない限り、リスクを解明することはできず、データの活用も難しいとしています。

「可能性があるというところまでは、ああ、そうですかということで、もちろんそうかもしれない。そうかもしれないだけで、それ以上のことはいえませんのでね。ゆがむにはゆがむだけの死亡率の、リスクの違いがあるわけですから、その違いを証明できるだけの被曝線量を請求書でもなんでもだしていただかないとですね、放影研として一緒に、同じ土俵で議論することはできないということです。」(大久保理事長)

今、私たちは新たな被曝の不安に直面しています。去年おきた原発事故です。子どものころ、母親の背中で黒い雨を浴びた佐久間邦彦さん。福島などから広島に避難している母親たちに、自らの体験を語り始めています。

「母が私を連れて裏山に逃げたのですが、そのときに黒い雨にあったのですね。」(母親たちへの講演で)

佐久間さんが繰り返し訴えているのは、事故のときにどこにいて、どう避難したのか、自分と子どもの記録を残すことです。被曝の確かなデータがなければ、子どもを守ることはできない。母親が答えてくれた自らの黒い雨の記録を見せながら、語り続けます。

「調査したけれども、その後、何もやっていない。やはり広島の経験を、本当に調査をやってなかったことは残念なことなのですが、怠慢だと思いますが、だけどやはり福島で生かすためには、どんどん進めていかなければいけないと思いますね。過去を振り返りながらね。そうすることが子どもたちを守ることにつながると思います。」(佐久間邦彦さん)

広島・長崎で被ばくし、ガンなどの病気で苦しんできた被爆者たち。長年にわたって集められてきた膨大なデータは、放射線によって傷ついた一人ひとりの体を調べることによって得られたものです。半世紀の時を経て明らかになった命の記録。見えない放射線の脅威に正面から向き合えるかが、今、問われています。

終わり

語り 伊東敏恵

声の出演 坂口芳貞 関輝雄

取材協力 高橋博子 冨田哲治
広島原爆被害者団体協議会
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

資料提供 アメリカ国立公文書館
全米科学アカデミー 広島平和記念資料館
気象庁 広島大学原爆放射線医科学研究所
林重男 林恒子

取材 田尻大湖 山田裕規 松本成至

撮影 佐々倉大

音声 土肥直隆

映像技術 猪股義行

照明 西野誠史

CG製作 妻鳥奨

音響効果 小野さおり

編集 川神侑二

リサーチャー ウインチ啓子

コーディネーター 柳原緑

ディレクター 松木秀文 石濱陵

製作統括 井上恭介 藤原和昭

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