2015.01.11

明日に向けて(1010)フランス新聞社襲撃事件の背景にあるものは何か-(年頭に世界を俯瞰する-5)

守田です。(20150111 22:30)

これまで「年頭に世界を俯瞰する」と題して、現代社会に大きな矛盾を作り出している新自由主義が、それ以前のケインズ主義にも共通した「儲かればそれで良い」とする価値観の上に、弱肉強食の資本主義を作り出してきたことを見てきました。
僕の意図では前回の内容に続いて、新自由主義のもとでさらにどのような矛盾が作られてきたのかを詳述しようと思っていましたが、そんな中で現代世界の矛盾を凝縮したような事件が起こってしまいました。フランスの新聞社襲撃事件です。
どうしてもこれには触れざるを得ないと考えて、少し歴史的な説明の順番を反転して、現代のこの問題をどう捉えるのかを論じてみたいと思います。

大前提として語らなければならないことは、今回シャルリー・エブドに対して行われた殺人襲撃は、断じて認めることのできないことだということです。
理由は無抵抗な人々を一方的に殺害したからです。僕は人の命を奪うこうしたあらゆる暴力的試みに絶対に反対です。
ただし「表現の自由」を侵害したからだということには保留したいものを感じます。現代世界のあり方の中で、ヨーロッパの新聞社がムスリムの人々を侮蔑するのも一つの暴力であるとも感じるからです。

この点について非常に共感できる記事がネット上に載っていたのでご紹介しておきます。国際政治学者の六辻彰二さんという方が書かれています。
フランスの新聞社襲撃事件から「表現の自由」の二面性を考える-サイード『イスラム報道』を読み返す
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20150109-00042123/

僕が今回、書かねばならないと思っているのは、現代世界を俯瞰した時に見えてくる「イスラム」と「イスラム過激派」の位置性です。
ちなみに「イスラム過激派」という言葉自身も、西洋的な一方的文脈のもとにある言葉であることに注意を促したいと思います。イスラムという思想の中の過激派というより、イスラムを信じる人の中に持ち込まれた暴力思想と言った方が僕は良いと思います。
その点もサイードの『イスラム報道』などに触れていただくと見えてくるものが大きいと思いますが、ともあれイスラムという信仰が「過激」なのではないということを強調したいです。現実にはキリスト教徒にも「過激派」はたくさんいるし、世界で一番過激で一番たくさん人を殺してきた国家はアメリカです。

さて新自由主義が1970年代のケインズ主義的資本主義の行き詰まりの中で登場してきたことをこれまで見てきました。そのときに社会主義が十分な対抗軸になれなかったと僕が考えていることも明らかにしてきました。
とくに既存の社会主義国家は、対抗軸足りえないどころか1980年代にどんどん衰退していき、同年代末から1990年代初頭に次々と倒れて行きました。
歴史的に見た場合、あたかもこれと入れ替わりに、資本主義的矛盾と鋭く対決する大きな潮流としてイスラムが台頭してきたことに注目する必要があります。

その一つは1979年に勃発したイラン革命でした。それまでのイランはパーレビ国王が統治する独裁国家でした。しかもパーレビ王政は「アメリカの中東の憲兵」と言われた政体でもありました。
これを倒したのはイスラム教シーア派を中心に結集したイランのムスリムの人々でした。いやここにも初期にはフェダイン・ハルクなどの社会主義グループも参加していました。しかし革命イランは次第に社会主義勢力を排除し、イスラムの理念のもとに歩み始めました。
「中東の憲兵」を失って狼狽したアメリカは、同じく貧困層に支持されるシーア派の台頭に脅威を抱いたアラブの王族たちの思惑も受けつつ、イラク・フセイン体制を軍事的に強化して、イランにぶつけました。かくしてイラン・イラク戦争が勃発しました。ちなみにフセイン政権はバース党という社会主義政党によって成り立つ世俗主義の政権でした。

一方でイスラム勢力の台頭を作り出したのは旧ソ連邦でした。同じく1979年。ソ連寄りだったアフガニスタンの共産党政権にムスリムの反発が強まり、武装抵抗がはじめられたことに対して、ソ連が軍事侵攻を開始しました。
これに対してアラブ世界を中心に世界のイスラム教徒が怒りを覚え、たくさんの義勇兵がアフガニスタンに向かいました。アメリカはここでもソ連の勢力をそぐために反ソ武装闘争派のムスリムを軍事支援。訓練キャンプなども作って、さまざまな軍事スキルを伝授しました。
ここに参加して後に大きな影響を持った一人がウサマ・ビン・ラディンであったことは有名です。アメリカがイラク戦争で「打倒」したフセインも、パキスタンで非合法的に処刑したウサマ・ビン・ラディンも、もともとはアメリカが育てた人物でした。

今、「イスラム過激派」と称される人々、とくに「アル・カイーダ」などと呼ばれるネットワークなどは、もともとアメリカが軍事的に育成したものであることを私たちは見ておく必要があります。
その意味で、これらの人々を「イスラム過激派」というのは正しくないと僕は思うのです。イスラム教徒の中に持ち込まれたアメリカの暴力思想、ないし「イスラムの中のアメリカ的テロリズム」こそがこれらの人々を巨大化させてきたのです。
ではなぜアメリカが育てたイスラムを名乗る暴力主義者たちがアメリカに牙を向いたのでしょうか。それ自身もアメリカの都合によるものでした。

1980年代、それまでアメリカと最も鋭く軍事的に対立していたソ連邦がどんどんその力を落としていきました。
一つにはアフガニスタン侵攻後、ムスリムの頑強な抵抗にあい、戦線が膠着して疲弊を深めたことが理由でした。この点でソ連のアフガン侵攻はアメリカのベトナム侵攻と同じだったと指摘されています。
さらに決定的だったのは1986年4月26日にチェルノブイリ原発事故が起きたことでした。当時のソ連邦書記長ゴルバチョフは後に、「チェルノブイリの前と後で私の人生は変わった」と述べ、ソ連邦崩壊の大きな要因がこの原発事故であったと指摘しています。

最も頑強なソ連邦が崩壊していく・・・。それはアメリカにとって喜ばしいことであるはずでしたが、実はアメリカ軍を総べるペンタゴンは呆然たる状態になっていたことが今日明らかになっています。
ソ連軍との対抗の必要性がなくなればアメリカ軍も大幅に縮小されてしまうと思われたからでした。その意味でソ連邦とソ連軍の崩壊を、実はアメリカ軍は喜ぶどころか深刻な危機の到来と捉えたのでした。
アメリカ軍、及びその後ろに控える巨大な軍需産業は次の敵を探しました。そして格好の標的とされたのがイラク・フセイン政権だったのでした。

このときフセイン政権は、アメリカの後押しのもとにイランの革命政権と闘ってきていました。当初は軍事力で圧倒的に上回るイラクが優勢でしたが、正義感で上回るイランは革命防衛隊を軸に頑強に抵抗。
結局この戦いも戦線が膠着し1988年に停戦を迎えました。イラクには戦争を通じて作った多額の借金が残り、債権の多くがアメリカやヨーロッパ諸国にありました。
こうした中でクウェートがイラク国境付近で油田開発を始めました。イラクは自国の権益が脅かされると考えて激怒、クウェートへの軍事侵攻を行いました。

このとき実はイラク・フセイン政権は、アメリカにクウェート侵攻に関する打診を行っていたと言われています。イラクとしてはアメリカが反対しないことを確認してからクウェートに攻め入ったのでした。
ところがイラクがクウェートに到達するやアメリカは激怒しました。さらにクウェートの看護師による「イラク軍兵士が病院に攻めてきて、保育器から子どもたちを取り上げて殺した」という証言を何度もテレビで流しました。こうしてアメリカは湾岸戦争に殺到していきました。
実はこれは完全なやらせでした。証言したのはクウェートのアメリカ駐在大使の娘でアメリカ在住の女性だったのでした。アメリカは他にもメディアで虚偽の情報をたくさん流して、全世界を湾岸戦争に巻き込もうとしました。

ここにはアメリカのベトナム戦争の戦略的な捉え返しがありました。ベトナム戦争では従軍記者たちがかなり自由に戦場の実態を報道していました。
その中からアメリが軍が行っていた残虐行為が世界中に流れることになり、世界中をベトナム反戦運動が吹き荒れるようになりました。アメリカの中でも反戦運動が大高揚し、結局アメリカは撤兵を余儀なくされました。
アメリカ政府とアメリカ軍はこのことへの捉え返しを強め、この湾岸戦争では完全にメディアをコントロールし、それどころか虚偽の内容を次々とプロパガンダすることで戦争を思うように進めました。戦史上、広告会社が戦略上の重要な位置をしめた初めての戦争でした。

ところがアメリカは大きな誤算を犯してしまいました。イラクへの侵攻をできるだけ大規模に行うために、ムスリムの聖地に大量のアメリカ軍を投入したことでした。
とくにメッカとマディーナというイスラムの2大聖地のあるサウジアラビアに、膨大な異教徒の軍隊が入り込み、そこからムスリムでもあるイラクの人々への大規模攻撃を行ったことが多くのイスラム教徒の心を傷づけました。
アメリカはメディアを使い、ジャーナリストを完全に統制することで、西欧メディアのコントロールはできたものの、他ならぬアラブの人々、イスラムの人々がどう思うかへの配慮を全く欠いていたのでした。

続く

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