2014.12.05

明日に向けて(989)広島・長崎での被曝影響の過小評価(ICRPの考察―4)

守田です。(20141205 08:30)

ICRPの考察の4回目です。

これまでマンハッタン計画を引き継いだアメリカ原子力委員会や全米放射線防護委員会(NCRP)が、放射線の遺伝的影響への人々の不安をなんとか抑えることに腐心してきたこと、これにICRPが同調を深めてきたことを明らかにしてきました。
ところがビキニ環礁の核実験などを契機に全世界で高まった核兵器反対運動の中で、遺伝的影響だけでなくガンや白血病への不安もまた多くの人々が指摘するようになりました。
すでにICRPをはじめとした国際機関は、放射線の影響には「しきい値」がないこと、「安全な線量」などないことを認めていましたが、あくまで遺伝的影響に限ったことであり、ガンや白血病にはしきい値があるのかどうかが新たな争点になっていきました。

特にこの時期に問題となったのはストロンチウム90の影響でした。ストロンチウム90はカルシウムと化学的性質が似ているため、人体に入ると大部分が骨に蓄積してしまいます。そのため骨髄の中の造血機能が破壊され、がんや白血病をもたらします。
このストロンチウム90が相次いで大型の原水爆の実験が続けられた1950年代後半以降、例えばアメリカのミルクの中からもたびたび検出されるようになり、人々の不安を高めていったのです。
1962年に『沈黙の春』を出版したレーチェル・カーソンは、農薬や殺虫剤に含まれる化学物資の危険性を告発した人として有名ですが、実は彼女は化学物質とストロンチウムによる複合汚染をこそ問題としたのでした。彼女の書から引用します。

「禍のもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでゆく。もはやもとへもどせない。汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そものの―生命の核そのものを変えようとしている。
核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれにまさる とも劣らぬ禍いをもたらすのだ。」(『沈黙の春』新潮文庫p14,15)

「殺虫剤による水の汚染という問題は、総合的に考察しなければならない。つまり人間の環境全体の汚染と切りはなすことができない。水がよごれるのは、いろんなところから汚物が流れ込むからである。
原子炉、研究所、病院からは放射能のある廃棄物が、核実験があると放射性降下物が、大小無数の都市からは下水が、工場からは化学薬品の廃棄物が流れこむ。
それだけではない。新しい降下物―畑や庭、森や野原にまきちらされる化学薬品、おそろしい薬品がごちゃまぜに降りそそぐ―それは放射能の害にまさるとも劣らず、また放射能の効果を強める。」(『同』p53)

人々の放射線による遺伝的影響とガンや白血病などの「晩発性障害」への恐れに対して、ICRPや他の国際機関は遺伝的影響には「しきい値」が認められないものの、ガンや白血病には「しきい値」がるという主張を1958年後半ぐらいから強め始めました。
その際に論拠となるデータとして出されたのが、広島・長崎での原爆傷害調査委員会(ABCC)の被爆者調査結果でした。
この調査では放射線急性死には1シーベルトというしきい値があり、放射線障がいには250ミリシーベルトというしきい値があると結論づけられ、ICRPの主張の有力な論拠となっていったのですが、同調査には意図的に被害が過小評価されるさまざまな仕組みがありました。

まず急性死しきい値1シーベルトという結論は1945年9月初めまでの死者を対象としたもので10月から12月までの死者が除外されて作られたものでした。
また被爆者に起こった急性障害には「脱毛、皮膚出血斑(紫斑)、口内炎、歯茎からの出血、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、倦怠感、出血等」があり爆心地から5キロぐらいでもたくさん見られましたが、ABCCはこのうち「脱毛、紫斑、口内炎」のみを放射線急性障害であると断定したのでした。
なぜかと言えばこれらの症状は爆心地から半径2キロ以内に高い割合で発生していたからでした。このことでABCCは放射線急性障害が生じたのは半径2キロメートル以内としてしまったのです。この2キロメートルの地点の放射線量の推測値が250ミリシーベルトでした。

このことでABCCは爆心地から2キロ以遠にいた人々には急性障害が生じなかったことにしてしまい、これらの人々を「被爆者」と認めませんでした。
しかも2キロ以内にいた被爆者と比較対象する「放射線障害を受けていない人々」の群としてこの2キロより外にいた人々を選んだのです。実体は高線量の被曝をした人々と、より低線量の被曝をした人々とを比較対照したのでした。
実際にするべきだったのは、爆心地から遠く離れ、被曝の影響が考えられなかった人々を比較対象とすることでしたが、意図的に低線量被爆者が比較対象とされたことで、2キロ以内の地域の人々のさまざまな病の発症の「被曝を受けていない人」との差異が実態より非常に小さくカウントされることとなりました。

また一方で広島市の中で「非被爆者」に分類されてしまった半径2キロ以遠の人々の白血病の発生率が、全国平均とあまり変わらないことも大いに利用されました。
ここでは実は広島市が1930~34年の調査では、白血病の発生率が全国平均の実に半分だったということが意図的に無視されました。もともとが半分だったのですから、全国平均と同じになったということは発症率が2倍になったことを意味していたにもかかわらずです。
広島市は1971年以降、政令指定都市を目指して周辺地域を合併して拡大しました。するとその地域の白血病者が統計に入ることとなり、発生率が急増しました。合併したかつての広島市郊外に黒い雨=放射能の雨が降った地域が含まれていたからでした。被曝は半径2キロよりもずっと広範囲で起こっていたのでした。

またABCCの調査開始日が1950年10月1日以降とされたことも被害を小さく見せるからくりとなっていました。先にも述べたように放射線急性死亡は1945年9月初めまで、正確には原爆投下後40日までしかカウントされていませんでした。
その後12月までに亡くなった方が除外されてしまったことを先に述べましたが、その後も多くの被爆者が、重傷から回復することができず、苦しみ悶えた挙句に亡くなっていきました。ところがこの1950年10月1日以前に亡くなった方たちの被害もデータから除外されてしまったのでした。
そのためABCCのデータは、高線量を浴びて重篤な被曝をしながらも、なんとか生き延びた人々によるデータなのであって、放射線への感受性がより強く、より大きな被害を受けた人々がそこから消し去られていたのでした。

さらに調査対象者を広島、長崎両市に限定することでもたくさんの実際の被爆者が除外されました。なぜなら被爆直後は広島も長崎も焼け野原であり、多くの人々が市街に避難せざるをえなかったからでした。爆心地に近いほどそうでした。
こうした人々の中には元の住所に戻れない方たちもたくさんいましたがこれもまたデータから落とされてしまいました。
この点で重要なのは、こうした人々には仕事を求めて移住せざるを得なかったより若い人々が多かったことです。つまり放射線に対する感受性がよりたくさんの強い若い人々がデータ集積から外されたのです。

『放射線被曝の歴史』ではこれらを以下のようにまとめています。重要な点なので同書から引用します。(なお同書では被曝を被爆と記述している箇所が多くありますがそのままに引用します)

「第一に、被曝後数年の間に放射線被爆の影響で高い死亡率を示した被爆者の存在がすべて除外された。
第二に、爆心地近くで被爆し、その後長く市外に移住することを余儀なくされた高線量被爆者が除外されている。
第三に、ABCCが調査対象とした直接被爆者は1950年の時点で把握されていた直接被爆者数28万3500人のおよそ4分の1ほどでしかなかった。しかも調査の重点は2キロメートル以内の被爆者におかれ、遠距離の低線量被爆者の大部分は調査の対象とすらされなかった。
第四に、そのうえでABCCは高線量被爆者と低線量被爆者とを比較対照するという誤まった方法を採用して、放射線量の影響を調査したのであった。
第五に、年齢構成の点においてもABCCが調査対象とした集団は、若年層の欠けた年齢的に片寄った集団であった。」(『同書』p106,107)

ICRPが今にいたるも放射線防護基準の根拠としている広島・長崎の被爆者データはこのように何重にも捻じ曲げられ、過小評価されたものでした。被爆者を二度三度と踏みつけるようなデータでした。
そしてそのデータが、チェルノブイリ原発事故の被災者に対しても、福島原発事故の被災者に対しても、被曝の影響をもみ消すものとして使われているのです。
私たちはこうした歴史をしっかりとつかんで、ICRPをはじめとした原子力推進派による被曝隠しや被爆者切り捨てと対決していかなくてはなりません。放射線に苦しめられ、今なお苦しんでいる多くの人々の痛みをシェアしつつ、ICRPの考察を続けます。

続く

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