2017.01.19

明日に向けて(1343)トランプはなぜ勝ったのか?アメリカで何が起こっているのか?

守田です。(20170119 23:30)

昨年のアメリカ大統領選で、ドナルド・トランプがヒラリー・クリントンに「まさか」の勝利をおさめました。

とうとう20日(日本時間では21日未明)に就任式を迎えようとしていますが、今のところ50人以上の議員がボイコットを表明しています。
中心になっているのは、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とともに、公民権運動を闘ってきたジョン・ルイス下院議員(民主党)。
あからさまな差別を口にし、排外主義をあおるトランプへの怒りが就任前から表明されていると言えます。

就任式に際してワシントンに集まるのはオバマ大統領の就任式のときの半分ぐらい。しかもそのうちの相当数が就任反対デモを行うと言われています。
僕も当然ですが、差別と排外主義の塊であるトランプ氏に何ら共感するものはありません。
それどころか、障がい者の真似をして笑いをとったり、メキシコ人やイスラム教徒を犯罪者扱いする彼の価値観に全面的に反対です。

しかし解き明かすべきことがあります。どうしてあれほど暴言を吐いているトランプが勝ち、マスコミのほとんどを味方につけ、優勢が伝えられていたヒラリー・クリントンが負けてしまったのかです。
このことを解き明かすためには、そもそもいまアメリカ社会はどうなっているのかを分析していく必要があります。

アメリカの現状分析についてはジャーナリストの堤未果さんが系統的に書き続けていて僕も共感してきました。
この小論でお伝えする僕のアメリカの現状分析も、多くを堤さんの本に依拠していることを初めにお伝えしておきます。
実はその堤さんの本を読んでいた方の多くは「トランプが勝つ事もあるかもしれない」と思っていたようです。
あるいは先日、僕が昨年対談したアーサー・ビナードさんもそんなことを言っていたし、アメリカでは映画監督のマイケル・ムーアなどもトランプの勝利を予想していたようです。

実は僕も選挙中から「トランプがひどいといっても、ヒラリー・クリントンが良いともまったく思えない」と強く感じていました。
というよりヒラリーはイラク戦争を支持してきた戦争屋であり、ウォール街をバックにして、貧富の格差を広げてきた張本人の一人でもあるがゆえに極めて批判的でした。
さらにオバマ政権のもとでなされたのも貧富の格差の拡大であり、イラク戦争の継続であり、結果としてシリアを滅茶苦茶な状況においやる政策で、何も評価できるものはないと思っていました。
そのため「トランプが下卑たことを言い続けて、ヒラリーがリベラルな顔をして次期大統領になるのは嫌だな」とも思っていました。

アメリカは1970年代後半より新自由主義の道をひた走り続けています。
いま世界はその流れにどんどん引き込まれつつあります。もちろん日本もです。
そのアメリカはいま、いわば「新自由主義のはて」に近づきつつあり、帝国としての大崩壊に向かっているのではないでしょうか。
今回の大統領選の中には、実はこのことへの民衆の側からの気づきという側面もあったのではないかとも僕には思えます。

トランプが圧勝で排外主義が全面化しているのであったら、20日のワシントンには差別主義者、排外主義者の万歳のみが響きわたることになるでしょう。
しかし就任式を前にしたワシントンからは、オバマ就任式のときのような熱気が伝わってきません。トランプへの期待はけして大きくはないのです。
いや、「ヒラリーだけには勝たせたくない」とおそらくは「究極の選択」でトランプに投票した「隠れトランプ派」が、今度はトランプ批判デモに立ちあがりつつあるのではないか。そんな風にも思えます。
今回はそんな点を掘り下げていくために、アメリカ社会でいま起こっていることを分析していきたいと思います。

1、投資と投機と社会的共通資本

前提としておさえるべきこととして「投資」と「投機」の違いについておさえていただきたいと思います。
さらに同時に「社会的共通資本」という概念について知っていただきたいです。僕の恩師、宇沢弘文先生が提唱された概念です。
「投資と投機」そして「社会的共通資本」という言葉が、いまアメリカで起こっていることを解き明かす一番のキーワードになると僕は思っています。

社会的共通資本とは市場経済の論理に任せてはいけないもののことをさした言葉です。金儲けの対象にしてはいけない社会的領域のことです。
環境やインフラストラクチャーなどが入りますが、同時に幾つかの社会制度も入ります。宇沢先生がとくに重視されたのは医療と教育と金融でした。
宇沢先生は市場経済そのものを認めなかった共産主義理論に対し、分権的市場経済は人間社会の必然として否定できないものと捉えて認めつつ、しかし金儲けにさらしてはいけない領域として「社会的共通資本」を定義しようとされたのです。
その社会的共通資本は、一方でまた旧ソ連社会のように、官僚の恣意的支配にも任せていてはいけない。それぞれの地域でその領域に一番深く携わっている「専門家」が集い、民主的に運営していくことが問われると説かれました。

これに対して市場原理主義は、すべて市場の論理に任せることを主張し、政府の介入を極度に嫌います。
とくに社会保障制度などのセーフティーネットや公共サービスを、「自由な競争を阻害するもの」と批判し、その解体を主張するのです。実際にアメリカを中心に世界中で行われてきていることです。
これに対抗する概念でもある社会的共通資本について説明しようとするとき、「医療や教育はお金儲けの対象であってはならない」という主張は比較的理解されやすいのですが、「金融」は俄かには理解しにくい。
そこで今回の小論の全体を貫くものとして「投資」と「投機」の違いをまずはおさえていただきたいのです。

投資の典型は社会的事業にみんなでお金を出すことです。
例えば鉄道を作る。みんなにとって大きな利益がある。鉄道を作ったら環境破壊になるということはとりあえず横においておきましょう。鉄道ではひっかかるなら橋を作ることにしてもいいです。
ともあれ社会的に有益と思われるものをみんなで作るのですが、規模が大きいので1人ではとても資金を賄えない。たくさんのお金を集める必要があります。
「よし分かった。世の中に有益な事業だから自分もお金を出そう。でもそれで利益が出たら分けてね」というのがもともとの投資です。
銀行は本来、この投資を司るために社会的に登場しました。資金を集める必要ができてきたからです。ここに「金融」が発達し始めます。

ちなみに日本の中世を見ると、こうした社会的事業のとりまとめを誰がやっていたのかというと、多くの場合、禅僧だったのですね。
なぜ禅僧が主体だったのかというとと、平安時代から鎌倉時代にかけて、当時の宗との交易の中で宗で作られた貨幣が大量に入ってきて日本でも貨幣経済が発達しました。
貨幣が大量にあって初めて商品交換が促進されたのです。

そのとき重要だったのは、お坊さんは自らを俗世と断っており、聖なる領域にいたことです。当時はその聖なる領域にいる人のみが商品交換を担えたのです。
なぜかというと、あらゆるものには人との縁(えにし)があるのです。その縁がある限り、ものは他者へと譲渡できない。縁を切らないと市場に投げ入れられないのです。
ちなみに市場はもともと「いちば」と呼ばれていました。「市庭」と書かれました、神社や仏閣の境内が多かったのですが「虹がたったところ」が「市庭」になることもありました。

そこに投げ込まれたものは、俗世と断った聖なる人にしか扱えない。このためお坊さんが交換を取り仕切り、もとの所有者との縁が切れたものを次に求める人の手に渡していったのです。
それをお坊さんの中でも禅宗の人々が主に担ったのは、当時の交易に携わっていたものに禅僧が多かったからです。
なぜかというと交易で大陸から持ってくる一番のお宝が仏教の経典だったのです。しかもこの時期は禅宗のものが一番多かった。大陸で禅宗が栄えた時だからです。

禅僧たるもの、教典を読めなくてはならないわけですが、それは当時の中国語ないし漢語だったわけで、さまざまな取引を行うにも必要とされた必須の言葉でもありました。
それで禅僧が商品交換や金融を司ることが多くなっていったのです。その点では交易もまた「聖なる仕事」であったことを知っておく必要があります。
ちなみにその聖なる仕事を守ってくれるものとして登場してきたのが大乗仏教のスーパーヒーローないしヒロインである観音菩薩ですね。
法華経のチャプターの一つである観音品を読んでみてください。観音経と独立して扱われていたりもしますが、それを読むと明らかにこの経典を書いた人々が、交易を担っていたことが分かります。

それはともあれ、そのお坊さんが主体となって社会事業を呼びかけることを「勧進」といいます。お寺を立て直すとか、橋を作るとかのために、寄進を呼びかけることが「勧進」なのです。
これが有名な歌舞伎の演目になっています。弁慶の勧進帳です。
平家打倒を成し遂げた後に、兄、源頼朝の不興を買ってしまった義経一行は、山伏に身をやつして京都から北陸方面へと逃げていくのですが、今の石川県の小松市あたりの関所で疑われてしまいます。
このとき弁慶は「自分たちは焼失した東大寺の再建のための勧進を行っているのだ」と主張し、「では勧進帳を読んでみろ」と言われて何も書いてない巻物を広げ、寄進した人の名や項目などを読み続けて、ついに疑いを晴らして関を突破するわけです。
そのように何か社会的に必要なもののためにお金を集めて実行に移していくということは、資本主義社会以前からも行われていたのですが、「聖なる仕事」であったことに注目しておいていただきたいと思います。

これに対して投機の目的は利ざや稼ぎです。事業への投資ではなく、利ざやだけを目的に株などを買い、価格が上がったら売り抜いて儲けるのです。
例をあげます。まず鉄道会社の株を買います。それで今だったらすぐに経営陣にリストラを迫るのです。それでリストラがなされると「経営努力をしている」「組合に屈しないいい会社だ」ということで会社の株が上がるのです。
そうしたらさっさと売ってしまい利潤を得るのです。

だいたい今どきのリストラではベテラン社員を切り、非正規雇用に変えたりするのですが、そんなことをしたら一時の経費削減になっても、10年後は持つのでしょうか。
当然、持たないのです。当たり前ですが長い目で見れば会社や事業が悪くなっていくのです。でも投機屋には10年後など関係ないのです。株価を上げて売るのが目的で、その会社が行っている社会事業にはなんの関心も持っていないからです。
このように「投機」は「投資」と違ってとてもあこぎなものなのです。

続く

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